Harmonize Nature

2013

2013年12月30日(月)

ニース、バルセロナ、マラケッシュを満喫し、再度プロバンスへ戻って来たところで、突然、顔にありえないほどの湿疹が出た。体にももちろん痒いぶつぶつが出たが、何よりも顔がひどく、もう誰だか判別できないほどに腫れ、浸出液が出て、訳も分からず途方に暮れながら、ユゼスの宿に10日間こもっていた。残りの旅程は全部キャンセルし、もうちょっとアクセスのいいアヴィニョンに移動して更に10日。病院へ行くも救急外来で3時間待たされた挙句「湿疹です」と言われてお馴染みの抗ヒスタミン剤と外用ステロイドを処方される。抗ヒスタミンだけを買い、服用した。帰国の日までになんとかサングラスとマスクを外して表を歩けるようになった。顔色はやけどのあとのような赤黒い紫のまだら。
思い当たるきっかけといえばユゼスの宿の寝具から異臭がしていたこと。掃除の行き届いていない短期滞在用リゾートマンションの部屋だった。しかしこれまでの人生で、汚さのレベルで言えばかなりのグレードのところにも滞在した経験があるが、平気だった。なぜこのタイミングでこんなに反応したのか?アスベストからシーツに使った洗剤まで、ありとあらゆるものを疑ったがはっきりとしない。
ちなみにアヴィニョンからは一気にTGVでシャルルドゴール空港まで行く予定が、電車遅延により乗れず。結局空港からパリの友達のアパルトマンへ直行し、3日間お世話になってしまった。一番早い空席が3日後しかなかったのだ。その間一人で抱えていた皮膚疾患のストレスと苦しみを友達に聞いてもらったり、他にも色々と話をしたら随分と気が楽になったし、久しぶりにと出かけたルーブル美術館も楽しかったので、良かった。
かろうじてパスポートの写真と同一人物であることを疑われないレベルにまで回復したのちに帰国したのだが、帰国後は抗ヒスタミンの服用をやめた途端にそれまで何ともなかった足首のあたりにまで湿疹と腫れが吹き出すように出てしまい、呆然とした。一向に治る気配もなかったが、温泉に入ったら見事に回復。さすがに大浴場には入れないので部屋に温泉が付いている素敵な宿に母と一泊し、おいしい料理を食べる以外はずっと風呂に浸かっていた。皮膚疾患には温泉が一番効くと思う。
以前湿疹が出たときは長野の下諏訪にある毒沢鉱泉にお世話になったが、東京からは遠かった。札幌からなら定山渓まで車で1時間強で行ける。札幌にいて良かった・・・。日帰りなら豊平峡もあるし、無料送迎バスもあり値段もリーズナブル。
それにしても15歳のときの大手術がまだ尾を引いているのだろうか。あの事故さえなければ・・・と本当に悔しく思った。過去にフランスで山から落ち、今回もフランスでひどい湿疹が出たせいで旅の続行ができなかったのだ。そもそもなんで湿疹が出るかと言えば、あるヒーラーに言わせれば、輸血が原因であるらしい。他人の血を入れたので、自分のものではないDNAや性質を排出するための作業が必要となり、それが40歳くらいまで続くと言われたことがある。
輸血だけでなく、毎日大量の薬剤を飲み、点滴につながれ、注射をされていたのだから排出したい物質は色々あっただろう。本当に大きな事故で死にかけたのだから。でもあのとき全力で助けてもらったから今がある。踊ったり、トレッキングをしたり、好きな場所へふらりと旅ができるのも、あのとき死ななかったからだし、手術をしてもらったから。もっと言えば事故がなければ今の私もなかった。かなり違う性格だっただろうなあと思う。否定していても始まらない。とにかく湿疹は、出尽くしてしまえば治る。病巣をつくるわけでもなく、きれいになるから、それでいいことにしよう。
そんなふうに思いながら忙しく翻訳の仕事をこなすうちに、もう一年が終わろうとしている。まったくバタバタとした後半だった。日本はその間に右傾化し、ますます知らない国のようになっていく。今回ヨーロッパから日本を見て、あらためてすごく、良くも悪くも個性的な国だなあと思った。鎖国していただけあって、他の追随を許さないほどのマイペースぶり。協調性もないし、内側だけ向いている。へんなの。

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2013年9月17日(火)

パリで2週間、クリニャンクール蚤の市の開かれている正にそのすぐ近く、エレベーターのない7階の部屋で快適に過ごした。階段はきつかったけれど最終的には慣れた。ポルト・ド・クリニャンクールからアパルトアンまではバッタもんの服を売る黒人の兄ちゃんたちがいっぱいおり、ムスリムな界隈なのか女性の姿が極端に少ない。
最初は怖い場所なのかと思い構えていたのだが、まったく何一つ問題はなかった。ご機嫌の北アフリカっぽいおじいちゃんに「ボンジュール!」と上機嫌で挨拶されたり、若者に「あなたはとても素敵です」と突然言われたり。拍子抜けするほど平和なエリアだった。その上部屋は泥棒もやる気をなくすくらい階段をのぼった先にあり、めちゃくちゃ頑丈なドアがついている。安全面での心配がないのはありがたかった。
時期的にも日が長く、いつまでも明るい。雨も降らず、からっと晴れて、毎日とてもきれいな夕焼けが見れた。びっくりして見とれるほどの色だった。30分かけて先生のアトリエまで毎日歩いた。アトリエはモンマルトルの裏手あたりにある。画家と彫刻家だけが住む市営住宅に先生は住んでいる。
何と言ってもその通りにはとても美味しくておしゃれなパン屋があるのが良かった。そこでちょっとしたものを買って行き、絵を2時間ほど描いたあとに先生が淹れてくれる珈琲と一緒にいただくのが日課となった。趣味人の先生は全然レールに乗っかっていない。そういう人といると私もレールから外れているので安心する。先生は好きなことだけをするように努めている。アトリエにも好きなものしかない。インスパイアされまくりである。

その後TGVに乗ってプロヴァンスへ移動。アヴィニョンでレンタカーを借り、10日後にマルセイユ・プロヴァンス空港で返却するまでしっかり乗った。リュベロン地方の真ん中のアプトに小さな小さな家を借りて、そこを拠点に毎日他の町に観光に行った。どんなところだかよく知らないままに借りた家は、行ってみたらものすごい田舎にあり、家にはテレビもラジオもインターネットもない。絵を描くのに最適だった。町のマルシェで食材を買い、ネットが必要になればマックまで運転。
何も不便なことはなく、こんな生活ならいくらでも続けられそうな気がしたがしかし、山道の運転だけはペーパードライバーの私には恐怖だった。何度も自分の運転で死ぬかもしれないと思い泣きそうなったし一度は思いっきりボディを石柱にこすってしまったが、誰も助けてくれないので自分で何とかするしかない。そういうとき一人はつらい。
それでも無事10日後の8月末、ローマへと飛ぶことができた。ローマに用があったのではなく、空港から長距離バスに3時間半乗ってアドリア海側のアスコリ・ピチェーノへ。友人のバルがイタリアを見せてやるとがっつり予定を組んでおいてくれた。ここは彼女のホームタウン。丸3日かけて大都市とは全然違うイタリアの小さな田舎町を堪能。イタリアが大好きになる。せっかくなのでフィレンツェにも行き、ミラノ経由でニースへ。ローマ以降全てバスと電車で移動したのだが、山がちなイタリアで陸路の移動は結構大変だ。
ニースに到着する頃日本のクライアントから翻訳の仕事が来るよう調整しておいたので、ニースに着くなりひたすらこもって仕事をした。その上想定外の仕事も1本舞い込んで、10日間わき目も振らず仕事。ここでも郊外の小さな家を借りたので快適だったが、門を開ければ地中海とニースの湾が見えるというのにこもらなければならず、それはそれでフラストレーション。昨日やっと全て納品し終えたところだ。
まだ少ししか町を見ていないが、パリに比べて明るく小規模で富裕層が多い。そのせいか全体的に余裕があるように感じられて大変好ましい。ガードをゆるめる気はないが、治安も良さそうだ。何より気候が気持ちよすぎて多幸感がやばい。アルルでも感じたこれ、一体なんなんだろう。土地との相性なのか?あと1週間コートダジュールを楽しんで、今度は2度目のバルセロナに飛ぶ予定。

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2013年8月8日(木)

3日前パリに到着した。札幌と比べてかなり暑いのかと思えば、むしろ乾燥している分もっと涼しく感じる。昨夜の最低気温は13度くらいだった。はあ極楽。
今回の滞在はシェンゲン圏内を動きつつ、3ヶ月弱の予定。完全に自腹で、テーマは芸術。今の時代かなりないがしろにされつつある実学ではないものにスポットを当てていきたいという思いから。日本に本帰国する前の自分を思い出したいということもあって、色々と気を使う小さな人間になる前まで巻き戻し、ものすごく自分の世界を持っており完全にKYで誇大妄想だった大好きな自分と寄り添う旅。
手始めに、アメリカンスクール時代IBのArtでお世話になった先生に絵の個人レッスンをしてもらっている。たまたま日本に来ていた日仏ハーフの友達のアパートを借りた。これまでのパリ滞在とはエリアも違うし、心構えも目的も違うので、非常に新鮮。絵のレッスンは毎日あり、とにかくわくわくする。
また毎度思うのは、ここはすごく大人の社会。甘えも何もないけど、自由がある。きめ細やかではないけど、自力で切り開けば何とかなるというような、そんなものが空気の中に嗅ぎ取れる。勿論スリやひったくりには警戒が必要なので、それも含めて普段とは全く異なる神経を使う3ヶ月になるだろう。考えるだけでも楽しいし、幸せな気持ちだ。

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2013年3月3日(日)

ツバルでのプロジェクトを体調不良のため離脱して帰国した。現地では人生で初めて脱水症状になり命の危険を感じた。ここで終わるのかな〜私の人生、とまで思った。
脱水症状で死ぬこともある、というのは水関連の会社にいたので自分もよく知ってはいたし、人にも水を飲めと散々言ってきたというのに。その後熱中症もやってしまい、1ヶ月経っても全然体が慣れず。
自分がこんなに虚弱体質になっていたなんて!わけが分からない。でも病院がない離島に行くリスクは冒せない、ということで離脱・・・。
結局首都フナフチに1ヶ月いた。色々なツバル人、ツバルに来ている日本人、その他外国人と交流を図り有意義な滞在ではあったけれど、自分としてはかなり情けな〜い思いで、けれどほっとした気持ちで帰国した。
それにしても日本で健康診断を受けたら何か数値で分かるのだろうか。一応ツバルで血液と尿検査はしたが、異常なしだった。それ以上のことで疑わしい部位はあるが、問題が大きくならないとこういうのって数値に出ないんだよなあ。日常生活が送れる程度だと病院も相手にしてくれない。
未病っていうのは相手にされないのが今の医療だから、特に問題が大きくなってないなら来ないでくださいって言われちゃうんだろうなあと思う。でもそれってストーカー被害で警察いっても実害がないと相手にしてもらえないという話と似てないか?日本のシステムは色々ちゃんとしてるけど、こういう不安要素は大きくなるまで放っておかれる。
その点システムが未発達なコミュニティでは、気持ちの受け皿はしっかりしているように思う。

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2013年2月6日(水)

ソロモン諸島の地震の影響でツバルにも津波警報が出たけれど、何事もなく。色々な人に安否確認のメールをいただき、ありがたい。
あまりにも情報がざっくりしており、ツバルに来る津波の高さなどは誰も調べることができないまま到着予定時刻は過ぎて、そのままツバルの午後は過ぎて行った。
こんなに全てが低く、狭いような島では、東日本を襲ったような津波が来たら根こそぎ持っていかれて跡形もなく消え去ってしまう。
何もなくて良かったけれど、いつも通り満潮時には、波が陸にかぶるようにやってきてはあたりに水たまりをつくり、また地面から湧いてきた海水も、そこらじゅうにたまっていた。こっちの問題の方が危機的だ。

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2013年1月17日(木)

タロファ!やっとツバルに到着し、ネットに接続できた。韓国経由で、途中フィジーで1泊し、全部で3回飛行機を乗り換えて着いたツバル。
飛行機の中から、本当に細い島々が環礁をつくっているのを見て、テンションが上がった。
今は雨期なので、午後は雨。空はグレー。それでもラグーンのほうはエメラルドグリーンに輝いている。
ホテルのシャワーからは、どうやらお湯は出てこないよう。水だと長風呂できないので、使いすぎは防げるかな・・・。

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