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弓場農場

弓場農場というところがあると教えてもらったのは、サンパウロへ発つ4日前だった。
もう長いことバレエの公演をしながら普段は農業をやって暮らしている日系人コミューンがブラジルの田舎にある、ということだった。

興味は湧いたが、情報収集する余裕もないままばたばたと家を解約し、そのままサンパウロに飛んでしまった。

始まり

弓場は日系ブラジル人社会では特異な存在のようで、認知度は予想以上に高かった。弓場をテーマにした本や写真集が日本語図書館などにあったし、50代以上の日系人なら大抵弓場のことを知っていた。
また偶然にも、ホームステイ先の日系3世であるホストマザーが、弓場に縁のある家族と交流があった。それは弓場農場のあるアリアンサという日本人移住地を世話した、輪湖俊午郎氏の家系だった。俊午郎氏の息子嫁にあたる輪湖五月さんが、弓場から車で1時間ほどの街、ペレイラ・バレット(元チエテ移住地)に一人で暮らしている。数年前にご主人をなくされてからは、地域の日系の高齢者のために会を開いたりしている、とても知的で精力的な方だ。この五月さんが、弓場を案内してくださるというので、ありがたくお世話になることにした。

サンパウロのバハ・フンダというバスターミナルから夜行バスでペレイラ・バレットまで向かい、到着した日の午後に五月さんの運転で弓場まで連れて行ってもらった。ペレイラ・バレットから弓場農場のある第1アリアンサまで、ガラガラの道を飛ばして1時間ほど。アリアンサという地名に第1〜第3までの番号がふってあるのには違和感を覚えるが、1丁目から3丁目と捉えると非常に日本的でしっくりくる。ここもペレイラ・バレット同様、もともと日本人の移住地として用意された町なのだ。

先方には予め五月さんが話をしておいてくれたので、赤土の未舗装道路を抜けて到着するとすぐに広報担当の矢崎さんに迎えられ、2時間くらいかけてお話と敷地内の案内をして貰うことができた。

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弓場農場

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私たちはちょうど昼食が終わったくらいの時間帯に到着したらしい。大きな食堂には人がまばらに座って話したり何かつまんだりしていた。老若男女が一緒になって暮らしている合宿みたいな印象だ。ぱっと見はまとまっているように見えたが閉鎖的ではなく、大仰に歓迎するでもなく、不思議な距離で迎えられた。外部の人の訪問に非常に慣れているようだった。過剰に反応しない。来る者は拒まず、去る者は追わず、がモットーらしいが、風通しが良さそうな感じがした。迎えられる側としては、あまり味わったことのない感覚だった。

弓場農場は1935年、弓場勇氏とその仲間たちがこだわりを持って始めた。弓場氏はおそらくカリスマ性を備えた人物だったのだろうと思われる。日本からブラジルに渡った弓場氏が、トルストイやルソーの思想をもとに、理想に燃えて現実につくってしまった日本人移住者の生活共同体。畑を耕し、祈り、芸術を日常に取り入れた暮らし。その中では現金を使わず、有機栽培と自給自足が基本。
武者小路実篤や志賀直哉に影響されたという説も根強いが、矢崎さんいわく「弓場さんは弓場農場を作ってから武者小路実篤を知った」とのこと。どちらが先でも、この共同体の特異性に違いはないが。

またここでは原則として日本語を使う。宗教(祈り)と創造(芸術)と百姓(農業)を柱とした生活をすることと、日本語を守ることが弓場氏の願いだったのだ。それは見事に体現されている。ここでは人間の営みも自然の営みも同様に大切にされている。敷地内には、自然に無理をさせてまで人間の生活を押し通すようなものはどこにもない。土の上を歩き、雑草を踏みしめながら、各々が建てたという家を抜けて、有機栽培の畑に出た。

矢崎さんの話す声にピアノの音が寄り添う。どこからか楽器の音色が聞こえてくる畑というのはそうそうあるものではない。そういえばひとつだけ知っている。ピレネーでWWOOFをしたホストファミリーの畑だ。7歳の長女が金髪のおさげをたらして、細い腕でぎこちなくバイオリンを弾いてくれたのだった。初夏の風の吹く青空の下で、畑仕事をする私たちのために。

弓場氏の理念は欧州から来た移民には抵抗なく受け入れられた。設立当時、日本人よりもむしろ欧州の移民の、特に知識階級層が賛同した。というのは、昼間畑に出て働き、夕食後に家族が楽器を持ち寄って演奏する、日曜日に礼拝に行く、そういう生活と弓場農場は共通するものがあるからだ。
弓場農場は特にキリスト教信仰というわけではない。弓場氏自身はクリスチャンであったが、食事前の黙想時、メンバーはそれぞれの信じるものに対して祈りをささげる。絶対者に対する信仰、自分よりも大きな力を畏怖する気持ち。そこから生まれる謙虚さを共有できればいいようだ。

ここまで聞くと、非常に西洋的かつユニバーサルな思想をベースにした共同体だという印象を受ける。
だが、これはあくまでも徹頭徹尾日本人・日系人・日本語で形成された共同体なのだ。日本語を話す外国人は参加できないのだろうかとしつこく聞いてみたが、やはりどうしても日本の価値観を理解する日本人・日系人でないとダメなのだという。
その理由は、日本語には日本固有の価値観が宿っており、それが共同体の軸となる価値観を作っていることにある。それゆえに日本語を守ることは共同体の目に見えない秩序を守ることになる。確かに日本語を言語としてだけ操ることができる外国人にそこが理解されるという保証はない。

表面的には日本語を言語として習得することはさほど難しいことではない。日本語の一番難しいところは、どこを言ってどこを言わないか、どこまで省いても伝えられるか、また相手が省いた部分をどこまでくみ取れるかにある。即ち、話された言葉と同様に話されなかった言葉を慮る力量が求められる。いわゆる行間を読むということだが、これが日本人同士の距離の取り方や相手の尊重の仕方に大きく影響しているのだ。
西洋の言語をはじめに習得すると、日本語のこの部分に気付かず、伝えるべき内容をすべて口に出して言ってしまうので、妙に主語が多くなり、明瞭ではあるが不躾に聞こえがちである。

また日本語という言語は、文法で自と他の距離を規定する。呼び方、敬語の使い方、細かいニュアンスで関係を構築していく。(このあたりは言語学者の鈴木孝夫氏の著書に非常にわかりやすく書いてある) また日本語の読み書きができないまま、ただ喋って聞いて理解ができるだけでも、片手落ちなのだ。日本語は漢字・平仮名・カタカナのバランスを視覚化して覚えることで言語の成り立ちも自然と理解できる。完全に日本語を解さないようでは距離感、価値観、関係性を規定するような使い方ができない。
この小さな共同体をうまく存続させようと思ったら、日本語以外の言語を安易に投入して微妙なバランスを脅かすことはできない、ということなのだろう。

ここで生まれた子供たちはブラジルの教育を受けている。小学校に上がると学校へ行き、ポルトガル語で教育を受け、午後は日本語学校で日本語を学ぶ。外の世界を見てみたいのは若者の常であるから、大きくなったら子供たちは外の世界を体験しに行き、戻ってこないこともある。何でも買うことを考えるより先にまず作る弓場農場から、何でもかんでもお金を出して買う消費社会へと飛び出して、まったく違う世界を見てしまったら、戻りづらいのだろう。
それでも弓場の農場としての財政管理や今後の経営を考えるべく若いメンバーが知恵を出し合って動いていると聞く。とどまっている者も出て行った者も、等しく弓場の特異性を理解している。畑があり、豊かな土壌が野菜や果物を生み出すところを目にし、誰かの奏でる音楽や、ダンス、絵、ゼロから何かが創り出される瞬間が常に身の回りにある日常は、そうそうあるものではない。

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自給自足

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「現金はいらない。働かざる者食うべからずだけど、いつでも、いくら長期の滞在でも歓迎する」と矢崎さんは言う。
弓場には日本人の旅人が平均1か月単位くらいで滞在していく。そのまま居ついてしまった人もいる。弓場の人と結婚した人もいる。色々な旅人がブログでその体験記を綴っている。要するにWWOOFのように、労働の対価として、寝るところと食べ物を提供してもらう。それで成り立つし、問題は何もない。
しかし弓場農場が現状日本人WWOOFerのたまり場になっていることを考えると、もうひとつそこで可能性を追求できるのではないかとも思う。

弓場は旅人を充分インスパイアしてはいる。旅人も外の風を運んでくる上に労働力にもなって、いいかもしれない。
しかし農場自体の長期的な存続、そのための改革なり質の向上なりを考えるとき、せっかくそこに出会いがあるのだから、旅人から労働力以外に得られるものがあるはずだ。恒常的にいるメンバーの数が減って、高齢化している今、流動的なメンバーが季節労働者のように来ては働くだけであったら、状況は変わらないどころか、先細っていく。
つまり、大きく貢献できる人物がもっと訪れてもいいと思うのだ。旅人もただ行って農作業やってご飯食べさせてもらったからOKというのでなく、何か貢献できることや教えられる特技を積極的にオファーしていくことが重要でないか。
弓場の存続を考えたときに人の出入りを良くするということがひとつ、つまり外国人の受け入れが考えられるが、それは感情的にも難しいだろうから、縁あって来た人が積極的に貢献していくしかない。もしくは農場側が文化度の高い人たちを積極的に招き入れる。

弓場農場の中は、見渡す限り緑で、舗装された道はなく、柔らかい土やぬかるんだ赤土を歩く。
バレエや演劇を上映するために作られた劇場のステージには、刈った稲が敷き詰められていた。客席スペースはむき出しの土。シートを敷いた上に大量の収穫物があり、女性たちが作業中。ゴマの葉をとっているとのこと。いつ終わるのだろうというくらいの量があった。
風が吹き抜ける。慣れ親しんだ世界と違うルールが支配する生活。人と自然が中心にいるようだ。ここでは何でも自分たちの手で育て、作っている。米も野菜も果物もシイタケも、豚や牛も、みそやしょうゆまで。ホウキ、バイオリン、食器、石鹸、家、劇場、舞台衣装もすべて作る。
何か技術のある人なら、ここに住みながらその技術を教えることだってできるだろう。

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いつのまにか大きなキッチンでは、夕飯の準備が始まっていた。当番制で、大量に作るため、大きな鍋がいくつも並ぶ。鍋はぴかぴかに光っている。傍らには薪があり、それで「ハウル」のカルシファーのような火を起こし、料理する。すべて有機農法でつくられた食材で、和食中心。

ここにいたら、何がどうやってできているのか、成り立ちや仕組み、その原理といった生活(サバイバル)に必要な知識が身に付きそうだ。すべて目の前で誰かが作ってしまうのだから。
なんと立派な大浴場まであった。1日の農作業の終わりに、もっとも楽しみなのが食事で、その次に楽しみなのがお風呂であろう。それもシャワーではなくて、お風呂。

自給自足というテーマにピースボートで目覚めて、WWOOFに行ってみたものの、理想に燃えるWWOOFホストファミリーたちも苦戦していた。自給自足と簡単に言うけど、家族単位では実現が難しいということがよく分かった。数人でできることは限られている。数十人大人が集まって、手分けして作業して、やっとというところだろう。
弓場農場は異国の地でそれを77年前からやってきたのだ。一時120人まで増えた人口も、今は55人ではあるけれど。

「ここは決してユートピアではない。喧嘩もあるし色々あるよ。」
確かにそうだろう。やはり人が集まるところにはトラブルがある。そこで現金を使わないことが意味を持つ。お金の貸し借りが発生しない生活なのだ、現金がないということは。金銭トラブルを金銭ごと切り取ってしまったとも言える。
もちろん農場内では現金を使わなくても、光熱費や税金を農場は国に収めているのだ。そういった現実的な問題は運営面でつきまとう。破産や倒産の危機にも直面した過去があるが、そのたびに公益法人化したりして乗り切ってきた。

弓場農場が一度破産したときに、共同体が真っ二つに分かれて、新生農場という新しい農場が出来上がった。そちらは弓場より早く高齢化が進み、今では20人ほどになってしまっているようだ。
若い人はどうしても外の世界を見たくなり、出て行ってしまう。それは止められない。だから、まったく異なる世界、例えば土に触れずに育った若い人たちが、土に触れるという新しい体験を求めてやってくる、そういう相互の流れができるといいと思う。

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恵会

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その日は五月さんの家に一泊して、翌日は五月さんがつくった「恵会」という、日系人のお年寄りの集まりにお邪魔した。

会には女性しかおらず、全て日本語で行われていた。体を動かして、手芸などをして、最後に歌を歌って解散という流れ。私は単に見学しに行っただけなのだけど、とてもあたたかく迎えてもらった。
日本から来た人に会えて嬉しい、と言うのだ。

16歳の時に船でブラジルに渡ったという90代の女性がいた。お話を聞く時間が充分になかったことが悔やまれる。どんな人生なのだろう。頻繁に行き来できるような時代ではなかった頃の、地球の反対側への移住。
今は飛行機があるとはいえ、乗り継いで丸1日かかる道のりは30代の私でもきつい。彼女たちには更に困難な移動だろう。今更帰国しても、全てが激変している。ブラジルがもはや故郷なのだろうか。どのように感じているのだろう。

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Pereira Barreto

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移民資料館に行って、やっと自分がいるこの場所こそが、日本人の移住地として開拓されたチエテ移住地なのだということを知った。
自分の今立っているところに、何十年も昔たくさんの日本人が暮らしていた。昔の地図を見たら、定規で引かれた細長い形が各家庭に割り振られていた。川へのアクセスを確保しつつ、できるだけたくさんの区画に分けるためにそんな形になったそうだ。
線が引いてあるだけの原生林。入植者はまず大木を切り倒すことから始めなければならなかった。

ブラジルの日系1世たちは全くのゼロからスタートしなければならなかった。慣れない過酷な環境で、マラリアと戦い、強烈な自然と向き合って。助け合って知恵を絞って作り上げていった。
近頃の日本人には企業家精神がないなどと言われ、私自身も骨のある人にあまりお目にかからないが、当時新天地に希望を託して未知の大陸に渡った彼らは違った。今では日系人の若い人は大きな都市に移ってしまったが、ここから始まったのだ。

今の若い日系人は殆ど3世か4世で、人種も混ざっており、日本語をしゃべれないことも多く、殆ど日本人という感じがしない。故郷に錦を飾ろうとここで奮闘した1世、アイデンティティに苦しんだ2世。様々な日本人が、もがきながらも新しい人生を手にした。
国策として始まったものの失敗だったと歴史から抹消され、援助もなく、戦時中は日本語禁止令や財産没収などの目にあい、それでも助け合いながら立派な仕事をして、今ではブラジル社会で成功しそれなりの地位を獲得している人も多い。
彼らを知るごとに私は多くのことを学ぶ。日本人であることをある種あきらめたからこその異国での成功。それでも日本の良さをいつまでも持ち続けていること。それなのに国は失敗と切り捨てたり、都合のいいときだけビザを発給したりして、理解に苦しむ。彼らはこれからの日本を考える上で、重要なヒントとなるかもしれないのに。

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