グアヤキル(Guayaquil)
2009年10月18日
成田空港で6名の撮影クルーと合流し、米国を経由して、旅のスタート地点であるエクアドルの首都、キトへ・・・
のはずが、霧のため着陸できず、着陸したのは前年ガラパゴスに行く際の玄関口となったグアヤキルだった。この旅は、まるでガラパゴスの続きだよと言わんばかりに、同じ場所からスタートさせられることとなった。それはとても嬉しいことだった。大好きなガラパゴスに少しでも近いところにいると思うと、新しいことを目の前に委縮している自分を奮い立たせることができた。
それともゆっくり行こうよってことかな・・・。昼寝中のイグアナ、イグアナ公園にて。
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キト(Quito)
2009年10月18日
予定よりほぼ一日遅れで、やっと到着した標高2850mのキトでは、心配された高山病の気配はなかったが、体調の変化は色々とあった。
私の場合標高2500mを越えると必ずお腹が張り、一度トイレに行きたくなると我慢ができず駆け込む程で、大抵は乾燥していることも手伝って風やちょっとした刺激で涙が出やすく、唇や鼻の中まで乾いてバリバリと痛い。夜はこてっと寝て、朝早くにぱちっと目が覚めた。もちろん階段を上るなどのちょっとした運動で息が上がった。
キトはプレ・インカ時代のツァフィキ(Tsafiqui)の言葉で「世界の中心」という意味を持つ。
インカの皇帝も別荘として愛したこの町は、山に囲まれ、からりと晴れて涼しい風が吹く。午後にはざっと雨が降るが、それもまたいい感じがする。町がそれによって落ち着きを取り戻すような、いい時間になるのだ。見慣れた通りがざあざあと濡れていくのを、カフェから、宿の窓から、ぼーっと見ていた。
滞在した辺りはノルテと呼ばれる新市街で、バーやディスコが立ち並び、夜は宵っ張りの旅行者がうろうろしている楽しいエリアだった。泊まったのは安いホステルだったが宿の人は皆親切で善良。町に出ても人は優しいし、人なつっこい。
対するセントロ、旧市街は歴史的建造物が立ち並び、若干汚くて怖い感じがする。それもパネシージョの丘から眺めてしまえば全て靄がかかり、雪をいただく山脈に囲まれて、幻想的で美しく見える。
そこらへんを野犬がうろうろしていて、早速プロデューサーさんがお尻を噛まれていた。狂犬病の予防接種を全員受けていたので何事もなかったけれど、私は野犬に噛まれるようなことが起こりうる場所にいるんだと、やっとそのとき意識した。先進国とは違う常識で成り立つ世界をこの先行くのだ。
参加するツアーのメンバーと顔を合わせたのはキト滞在4日目だった。この翌日から半年かけて、イギリスのクムカという旅行会社が主催するツアーに参加し、その全ての旅程に撮影が入る。私の旅程はキトからパタゴニアを経由してリオ・デ・ジャネイロへ、そしてリオからカラカスへという2つのツアーから成る。
他のパッセンジャーはオーストラリア、イギリス、ニュージーランドと、殆ど英語圏出身だった。総勢10名でのスタートだ。彼らは予め予約した場所で乗り降りする。旅の途中でメンバーは入れ替わり、増減するが、私のようにカラカスまで一気に行く人はいなかった。でも私は南米と関わりに来たのだから、同乗者のことも、撮影も、プライオリティとしては正直言うと二の次だった。
とにかく、南米と、関わりに来たのだ。
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オタバロ(Otavalo)
2009年10月23日
翌朝、各自バックパックをトラックに積んで、いよいよツアーがスタート。ドイツ軍払い下げの装甲車を改造した大きなブルーのトラックは信じられないくらいガタガタと揺れながら、突然エクアドルののどかな山道に入って行く。
さほど期待していなかったとはいえ、このトラックは見かけよりもよほど古いらしい。舗装された道でもひどく揺れるし、座席シートはきっちり90度で、倒れる気配もない。もちろんエアコンもない。スピードは出ず、どんどん後続車に追い越されていく。
私としては最低限安全に動いてくれさえすれば良かったのだが、隙間風、シートを叩く度に舞う砂埃、鍵をかけるのに相当なコツが要る窓、雨漏りする天井など、今思うと走るだけで精いっぱいのご老体だった。けれどドライバーのローレンスは愛情いっぱいにいつも油まみれになってメンテナンスしていた。
初日はまず赤道に立ち寄ってからオタバロへ向かった。
陸路の良いところは言うまでもなく、途中の景色をしっかり見られるところ。窓から見る初めてのアンデスは優しさを感じさせる。勝手に抱いていた厳しく怖いようなイメージとは裏腹に、景色を見ているだけで穏やかな気持ちになった。野生のサボテンの花、リャマ、澄んだ小川。ワイヤーがぐるぐるとぎこちなく巻きつけられた原始的な木の電柱、石灰の白い崖がむき出しになった岩肌、焼畑の黒い煙。
道中は、アンデスに暮らすケチュア族の人々の生活も見えた。民族衣装を着て、機械を使わずに手作業で畑仕事をしている。先進国の人々が結局行きついた手作業・手作り、いわゆるロハスな生活は、こんなところにあるのだなと思う。アンデスはびびりながら入っていった私を柔らかく歓迎し、自然の美しさにしっかりと目を開かせてくれた。
オタバロは民芸品の市場が立つことで有名。値段はボリビアのほうが安いが、アルパカの毛布など、ここでしか手に入らないものもあるし、一番センスが良く品質も確かだったので、ここでの買い物はおすすめできる。ただし、必ず値切ること!
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テナ(Tena)
2009年10月24日〜28日
オタバロで民芸品を買ったその翌日にはもうアンデスを越え、東のアマゾン側へ向かった。
途中山を越える際、私のG-Shockについた高時計は、最高で3800mを示していた。富士山の天辺よりも高い。
上着を重ね着しても寒いくらいだったのだが、そう感じていたのはどうやら私一人だけだったらしい。
他のパッセンジャーは皆私とは人種が違う。聞けば体温も高めで、37.5度くらいが平均。
そのせいで彼らが寒いと感じる気温は私のそれよりもずっと低いのだ。
窓の外を見ると、視界の先には雲がかかっている。
素晴らしい景色がどんどんやって来るから窓の外を見ていないと勿体ない。
もっとアンデスを知りたいという私の思いをよそに、その日の終わりにはアンデスを越えて、アマゾンの端っこに到着した。
この辺りはもう充分に蒸し暑く、一日で季節が変わってしまったようだった。
到着したロッジは広々として素敵だけど、食堂以外電気がなかった。
夜はロウソクとヘッドトーチの灯りを頼りに、蚊帳の中で寝た。
また、ここではお湯が出ない。初めこそ冷水シャワーに文句を言ったが、シャワーは冷たくても無色透明であればまだ良い方で、
この後場所によっては黄色い水や赤い水が出てくることも何度かあった。
アマゾンの夜はにぎやかだ。色々な虫の音が聞こえてくるのだが、電気シェーバーみたいな音まである。
隣の部屋のクリスがヒゲを剃っているのだろうと最初の二晩は本気で信じていたが、よく考えると男性は旅人のお約束でひげは伸ばし放題。
南米大陸のセミも、聞き慣れた日本のそれとは鳴き声が違い、機械の音がわんわん響いているみたいに聞こえる。
ハキリアリたちが自分の体より大きな葉を、一心不乱に列をなして運ぶ姿も見られる。いくらそれが本能だとはいえ、
あまりにもよく働くので自分の怠惰さを思わず恥じ入るほどだった。
日中はケチュア族のガイドにつれられて、皆でアマゾンの獣道を歩き回った。
ここで生まれたガイドのファウストは裸足だった。きっと足裏の柔らかい土の感触が心地よく、
また木登りのときには木の皮を足裏で捉えるとより木の状態を感知しやすいのだろう。裸足でいる方が、
船に乗るにも、川で泳ぐにも都合がいいことは良く分かった。
川で泳ぐ機会があった。はじめ濁った水の色にかなり躊躇したのだが、いざ入ってみると、
川の中から見上げる景色はいかだやボートの上から見るのと全く違い、景色の一部に自分も溶け込んでいるような感覚に捉われる。
あたりは突然親近感を増して好意的になり、アマゾンが私を歓迎してにっこり笑ったように思えた。流れに身を任せているのが気持ち良い。
朝から曇り気味だったのに、その直後、突然太陽が出てきた。素敵な体験だった。
この川で地元ケチュア族の人々は洗濯もするし汚水も捨てる。それでも工場から化学薬品を垂れ流すより汚染度は軽いのかもしれない。
南米では衛生観についてすごく考えさせられた。何が本当に汚くて、何がきれいなのか。
パッセンジャーが皆持ってきていた除菌用のジェルが私には毒に見えて、彼らがそれで手をこするたびに違和感を覚えた。
消毒のし過ぎが免疫力の低下を生んで、先進国ではアレルギーが問題になっている。
私はこの旅ではワイルドに徹しようと決めていたので、そんな潔癖さをとうに捨てていたし、
自然はきれいだと思っているのでそういう習慣にはついて行けなかった。こんなにきれいな自然だらけで、
どうやって汚くなりうるのだろう?
ジャングルに暮らす人々の暮らしは、すごく自然に即した、豊かなものだった。彼らは周辺の植物の効能を知り尽くしていて、
それで全てを賄い、決して捕りすぎることもない。雨が降れば家にいて、お腹がすいたらそこら辺のフルーツを食べる。
働き過ぎで体を壊すこともない。キッチンの棚の鍋がぴかぴかに磨かれていたことが印象的だった。
そういうところに民度の高さが表れると思うのだ。
アマゾンは思ったよりも静かで、怖くはなかった。人間を拒むようなアグレッシブな姿を想像していたけど、
逆に全ての生き物を受け入れ、なんでも提供してくれる。包容力に満ち、どこまでも続くジャングル。
そこでは、風にまかせて葉は落ち、落ちる過程で他の木々を揺らし、
地面に落ちて虫の行く手を阻んだりしてお互いに影響を与え合っているが、何ひとつ急いではいない。
かさぶたがひとりでに剥がれるような自然のスピードで、それを守っていると自然界では上手く行くし、
それは人間が作り出したものよりもずっとゆっくりだ。
自らの自然なペースで進むだけで他のあらゆるものと予定調和のように符合していく。
それが分かったとき体から力が抜けて、突然楽になった。アマゾンは初対面の私に、いきなりすごく大事なことを教えてくれたのだ。
そしてこの教えはその後、ものすごく何もかもがスローペースな南米で過ごす上で、とっても役に立った。
3日後ジャングルから少し離れた場所にある、
アマゾンの向こうにアンデス山脈を臨める素晴らしい眺望のロッジに宿泊。
バルコニーのハンモックに揺られながら視界いっぱいのアンデスに夕日が沈むのを見ていると、
「今」「ここ」しかないことをこれ以上ないくらい意識できる。他のことはどうでもよくなる、
あまりにも圧倒的で。ああ、アマゾンに来たのだな〜とただ思う。そして、言葉は要らないくらい満たされるのだ。
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リオ・ベルデ(Rio Verde)
2009年10月28日〜31日
アンデス山脈に再び戻り、今度はバーニョス(Baños)から少し行ったところにあるリオ・ベルデで
3日間キャンプ。
生まれて初めて自分でテントを張ってその中で寝たが快適だった。本当に睡眠が必要であれば、どこでも眠れるものだ。
田舎に行けば絶えず虫や鳥や家畜の鳴き声がし、都会に行けば遅くまで車や人でうるさい上に、
常に周りに人がいる生活なのだから、細かいことが気になって眠れないようではこの先一睡もできないと思い、
向こう半年は言い訳せずに寝ることを決めた。
ここは川遊びができることで有名。
これまた人生初のラフティングに挑戦し、なんとかボートからは落ちずに済んだものの、
見事に前にいたファラの背中に顔面からつっこんで頬骨を強打。唇を切って腫らした。
全員アザだらけになったが、そのあと食べたトルーチャ(マス)料理がおいしくて、
帳消しとまでは言わないけれど、慰められた。しかしラフティングを今後やることはないだろう・・・。
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ビルカバンバ(Vilcabamba)
2009年11月1日
再びアンデスの尾根をくねくねと行く。夕焼けを始まりから終わりまでしっかり見届けると、その後満月に程近い月がぎらぎらと昇って来た。
山なんてどれも同じなのではないかと思っていた南米以前の私は、ここアンデスでそれが間違っていたことを知った。
山には、自然には、ひとつひとつ個性がある。
アンデス山脈もエクアドルの真ん中あたりから南の国境に向かう辺りは、言葉で形容し難いがひとつの性格を持っていた。
それはとても優しいような、包容力のあるもので、単に美しいというだけではない。
到着したビルカバンバは、100歳を超えるお年寄りが骨年齢10代並という奇跡の村だ。
この辺りから採れる水が長寿の秘訣とされているらしいが、しっかりとした硬水の味だ。個人的な見解では、土が良いのではないかと思った。土、地層から水に溶け込むミネラル分、その土と水で育つユカなどの栄養価の高い野菜。
街並みはセンス良くかわいらしく、自然と上手く調和していて人々も幸せそう。馬に乗って広場にやって来る人もいれば、流しのミュージシャンや行商人もいる。またハンドメイドのドリームキャッチャーがそこらじゅうに飾ってある。
人々の笑顔を見ていると長寿というのが分かるような気がする。ここの人たちは上手く環境を活かしながら、そこにあるものと無駄なく調和して暮らしている。
泊まった宿は山の中にコテージを点在させるように作ってあり、ロビーでは大きなポットに熱いコーヒーがいつも用意してあった。
お湯だけ欲しいときはキッチンの人に声をかけると笑顔で沸かしてくれる。そこの人たちと接するだけで本当に幸せな気持ちになった。
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ワキーヤス(Huaquillas)
2009年11月2日
ビルカバンバのあとは、プヤンゴという木の化石を見に行き、更に南下。
ワキーヤスという町から、いよいよ国境を陸路で越える。
ぎりぎりまで市場が並びごちゃごちゃと活気に溢れる、くさ〜い橋を渡ったら、もうペルー。
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