プンタ・サル(Punta Sal)
2009年11月4日
プンタ・サルというビーチに面したキャンプ場でテントを張って3泊。
キャンプ場と言っても、ホステルのプライベートビーチをキャンプ場として安く開放しているだけのスペース。
シャワーやトイレ用にホステルの部屋をひとつ確保し、そこに大きな荷物を全員分置いて、寝泊まりはテントで、という方法。
砂が際限なくテントや、服や、バッグの中に入ってきて、化粧水をつけるときですらザラザラした。
場所柄なのか宿のクオリティのせいなのか、水道からはろ過し切れていない海水が出る。
そのためインスタントコーヒーを淹れてもおかしな味がするし、シャワーはお湯が出ない上に、水質のせいで髪がべたべたに。
海の向こうの日本の豊かな地下水と水道局のすばらしい技術を心から恋しく思った。
久しぶりの海ではあるが、大荒れで身の危険を感じたので泳がず、ビーチでサッカー、バレーボール、乗馬などをして楽しんた。
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ワンチャコ(Huanchaco)
2009年11月6日
砂漠の景色を眺めながら南下し、ワンチャコ海岸へと向かう。
トラックのスピードがあまり出ないため毎回移動で1日つぶれてしまうが、
その分都市部に住めない貧困層の暮らしを見ることになるので、
きれいなところだけ見て終わりではない。そこが私には合っていた。
高速脇の砂漠に投げ捨てられた生活ゴミがとても気になった。
何もない砂漠地帯に満遍なく散らかっており、さびれた悲しい感じがする。
撒き散らしておいて野焼きにするのか。自治体はノータッチなのか。
ワンチャコからトルヒーヨは近い。モチェとチャンチャンの遺跡を見に行った。
予想に反してすごく興味をそそられた。プレインカの文明に限っては、ロマンを感じる。ストーリーがあるせいだろうか?
ペルー北部にはまだ未発掘の古代文明の遺跡などが大量に眠っているのだそうで、今後ますます魅力的な渡航先になるのだろう。
さてペルーに入ってから徐々にパッセンジャーに親しみがわくようになってきた。
最初はあまり気にしていなかったが、彼らは家族でもないのに四六時中一緒にいて、寝食を共にする疑似家族だ。
癖や個性も見えてくるし、世話になったり世話をしたり、関わらざるを得ない。
いい人、悪い人、やりやすい人、やりにくい人、という括りでは最早なかった。
調子が良かったり悪かったり、ムラがあったり、機嫌の良し悪しも全て含めてのその人だった。
そして共同生活をする者、楽しいことを共有する者同士の思いやりがあった。
ハリーのトマトを切る不器用な手つき、
ファラのダンス、パージがよくメガネを拭いてくれたこと(メガネ屋さんなので汚れたメガネをほっておけないのだ)、
アンジの笑い声、ヘレンの訛りの強い喋り方など、小さいことを今になってもたまに思い出す。
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ワラス(Huaraz)
2009年11月8日
アンデス方面へと、南東に向かって走る。
このときもゴミだらけの荒れた砂漠を抜けなければならなかったが、標高が上がるにつれ緑豊かなアンデスの姿になり、ゴミもなくなりほっとする。
標高3800mくらいまで上がると雨量が増えるため、緑が増え、美しい山の光景が広がるのだ。小川やサボテンが見え始め、ムーミン谷のニョロニョロのような姿があちこちに現れる。サボテンたちの頭の部分は黄色く、ふわっとしてやわらかそうに見える。
ここまで高度の高い場所へ来るとモノにも変化が見え始め、ロールオンタイプのデオドランドは玉の部分が飛び出し、ハンドクリームはキャップを開けると際限なく出て来た。炭酸飲料を開封するときは十中八九シェイクして開けたような状態になった。全てが膨張している。
標高4400mのワスカラン国立公園(Parque Nacional de Huascaran)で、人生初のアイスクライミングに挑戦した。 自分の体くらい持ち上げる筋力はあると思っていた。ダンス経験があるし、ジムにも通って最低限の筋力は確保してきたつもりだった。
ただ問題は山そのものだった。15歳のときの山での事故の記憶が蘇る。でも自然の中に飛び込んで行く為には、避けて通れない道だった。この恐怖を乗り越えなければならない。事故から学んだ大事なことを肝に命じて、南米の自然ときっちり正面から関わらなければと思っていた。
それは、日々当たり前のように浸かっている日常が決して安定したものではなく、入り組んだ法則の網の中で奇跡的に成り立っているということ。つまり人はいつ何があって死ぬか分からない。そんな中、奇跡のような「今」「ここ」に自分が生きているのだということ。
そして、自然界の法則をなめてかかることがいかに危険かということだ。自然のルールに逆らって生きることはできない。足を踏み外して崖から落ちたときには、どこからか天使が現れてキャッチしてくれるわけでもない。ただ沢に足から着地することはある。脚の骨は粉々になったが、脳も内臓も無事、そういうことが起こりうるだけだ。
この事故に加害者がいないことに私は何度も安堵する。その代り自分だけをいつもひそかに責めていた。
自然の秩序を知らなかった、甘く見ていた、リスペクトしていなかった。
しかし、ワラスで遂に恐れていた事態が起きてしまった。
公園入口からクライミングのポイントまではちょっとした山道になっており、それ程危険ではなかったものの事故の恐怖がフラッシュバックして、子供のように泣いてしまったのだ。皆びっくりしていたが、私自身も信じられなかった。そんなに根強く残っていたなんて。
それでも皆が励ましてくれ、また泣いたら案外すっきりして、その後は気分を切り替え無事クライミングも達成できた。標高が高いこともあり体力の限界まで出し切ってやっとというところだったが。それによってトラウマも解消してしまおうという気持ちで頑張った。
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チャンカイ(Chancay)
2009年11月12日
リマから車でチャンカイへ。東京のサルサ仲間の実家を訪ねるためだった。
ペルー人に限らずラテンアメリカの文化の中に、家族を大事にするというのと、家庭に人を招いて家族の一員のように大事にもてなすというのがあると思う。
夜の六本木でしか会ったことのない日系ペルー人のロニーと、その妹のジャネット。相当長いつきあいだけどそういう意味では限定されたつきあいだった。
それなのに「ペルーに行くならうちにおいでよ!」と言ってくれた。
ジャネットは丁度この時期ペルーに帰っており、再会できた。
恥ずかしい話だが、その時まで日系人が何を意味するのか深く知ろうとしなかった。
お父さんの話を聞いたときやっと、そういえばアメリカ全土に日系人と呼ばれる人たちがいるけれど、どういう経緯でそうなったのだろう、と思った。
ガラパゴスでお世話になった旅行会社も日系人経営だし、移住したときのエピソードも社長さんから聞いていたのに、なんで調べようともしなかったのだろう。
多分このときが最初のひっかかりだった。
親戚も近くに住んでいるし、半分同居しているようなものなので、ジャネットの実家には人の出入りが多くある。
小さな子供の振りまく純粋なエネルギー、ジャネットのご両親の醸す落ち着いたトーン、そういうものが調和して、家庭を作っていた。
離婚したばかりで、今後家庭をつくることもないだろうと思っていたところだったけれど、思いがけずあたたかい家族の輪に入れてもらい、思いとどまった。
南米の家族の結びつきを肌で感じて、なんていいものなのだろうと思ったのだ。
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イカ (Ica)
2009年11月13日
リマを後にし、イカ(Ica)地方へと南下。
途中でリトル・ガラパゴスとも呼ばれるバジェスタス島へ行き、ペンギンとペリカンとアシカという組み合わせをボートから見る。
それからナスカの地上絵を見る。しかしポテトチップスを食べてセスナに乗ったら見事に戻してしまった。後半は吐き気と戦っていたので、せっかくの地上絵も感動が薄く残念だったが仕方がない。車も船も平気なのに、飛行系だけは酔いやすい。ナスカのセスナは両側のお客さんに平等に絵を見せようと何度も旋回するため、特に圧がかかって酔いやすい。座席前ポケットに常備されているビニール袋と、セスナを降りてすぐのところにある巨大ゴミ箱が、その確率の高さを物語っていた。
その後はワカチナ(Huacachina)という、砂漠のオアシスへ。小さな湖を中心にカフェや図書館が並び、辺り一帯は砂丘に囲まれて盆地のようになっている小さくもシュールな集落。この不思議な地形のせいで砂が常に飛んできた。阿部公房の『砂の女』のように、そのうち砂に埋もれるのではないかとすら思った。
こんな小さな集落ではクラブも期待できないだろうとは思いつつ、キャンプ場(つまりいつものごとくホステルの庭スペース)のすぐ隣のバーでサルサナイトやるんだって、という噂を耳にしたので、のぞいてみた。私含む女子4人は、どうせしょぼいだろうからすぐ帰って寝れるようにと恐ろしくカジュアルな格好で、すっぴんメガネにビーサンで出かけて行ったのだが、予想に反して信じられないほど盛り上がってしまった。
クムカのツアーはトラックがのろいこともあり、明るいうちに次の目的地に着くため、とにかく早朝出発が多い。この翌朝は4時に起きることになっていた。けれどせっかくの南米でせっかくのレゲトン、深夜までがっつり踊って楽しんだ。おかげで再度シャワーを浴びる羽目になったが、大満足。
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プエルト・インカ
2009年11月15日
ナスカの墓を経由して、プエルト・インカ(Puerto Inca)へ。ナスカの墓というのはミイラが見れることで有名だけれど、周辺の圧倒的な砂漠の印象のほうが強い。その砂漠に、埋葬品目当てに掘り起こされたミイラが白骨化している様を見て、ガラパゴスで見たアシカの骨を思い出した。乾いて木のようになった骨は美しかった。私が死んだら死体は砂漠で野ざらしにしてもらいたい。太陽に焼かれるなんて、清浄な気がする。
このときはプエルト・インカという名の、インカの遺跡に囲まれた入江にテントを張った。崖の上から大海に向かって飛んで行くハゲタカの姿を目で追う。ハゲタカは日本のカラスのように南米ではありふれた存在ながら、何やら高貴な感じを漂わせている。じーっと見ていると彼らの目線とシンクロする瞬間があった。静かで、広くて、獲物のいる大海原が眼下にあって、そして、余分なものが一切ないシンプルな法則で成り立った世界。
後にパラグライダーに挑戦したときに同じ感覚に陥った。空を飛ぶものの感覚なのだろうか。
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アレキパ(Arequipa)
2009年11月17日
さてここまで特に問題もなく移動して来た我々だったが、次の町アレキパに向かう途中、初めてストライキ中の地元民により山道が完全封鎖されているところに出くわした。
高度の高い、荒涼とした不毛地帯だが、アレキパに向かう主要な高速道路はそれ一本しかないので、いつ通して貰えるかも分からない状態の中、ひたすら待つしかなかった。窓をしっかり閉め切って、外の貧しそうな人々を、目を合わせないようにしながら盗み見ていた。
結局1時間も待たずに通して貰えたが、彼らは何かを怒って叫んでいて、賃金や労働条件の交渉の為に、観光客が往来する山中の高速道路を閉鎖したらしかった。
私は、裕福そうなGringo(日本語で言うガイジンみたいな言葉。南米では白人の観光客を軽く揶揄する意味でそう呼ぶ)たちがトラックに乗っているのを見て彼らが神経を逆なでされていないだろうかとヒヤヒヤしていた。手には火炎瓶を持っているし、不満が爆発している様子がよく伝わってきた。水をよこせと窓の外から叫んでくる。
でもしばらくそこに他の車両と共に停車しているうちに女性や子供もいることが分かり、これは権力に対する彼らの、村をあげての必死の意思表示であり抵抗なのだと分かった。そして同じ人間として、状況のこっち側とあっち側に分かれていることの不思議を感じた。
近くに建物ひとつ見えない山で、きっと遠くの自宅から歩いて集まったのだろう。そんな何もないところで彼らはペルーのメインの収入源である観光客の足止めをして、訴えようとしていたのだ。サルサが好きでインカの歴史に誇りを持っている優しいペルー人が、一方で厳しい経済格差を抱えてこんな捨て身の作戦に出ている。一緒に踊れれば楽しいのにな。残念だなと思っていた。
そんな気持ちで到着したアレキパはとてもきれいな町だった。これまでの人生の中で一番美味しいアイスをここで食べた。エッフェル塔を作ったエッフェル氏のデザインによる市場を見学し、カエルジュースやカエルの干物、生きたまま売られている食用のクイ、リャマのミイラなどシュールな品々を見る。
この市場見学はリアリティツアーの一部で、ツアーの本来の目的は、アレキパ近郊の貧民街を訪れて市民の実生活を知ることにあった。南米ではなぜか金持ちは低地に住み、スラム街が山手にできるという現象が共通してある。ここもそうだった。シングルマザーが多いので生まれた託児所、周辺の住民が通う食堂、墓地、石切り場などを見せてもらう。
ペルーという国は決して貧乏なのではない。何しろコカが採れるし、観光資源もたくさんある。ペルーのお金持ちはけた外れに金持ちだという。けれど富が集中してしまっているのだ。よくある話だけれど。
また、案内してもらったところでは、先住民ケチュアの血が入っていることを恥じる傾向があるらしかった。インカという優れた文明を歴史に持ちながら、なぜだろう。残念なことだ。そういう意味ではエクアドルのケチュア族はもっと堂々としていたように思う。
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チバイ(Chivay), コルカ渓谷(Cañon del Colca)
2009年11月19日
午前3時半、ご老体のFranではなく別のツアー会社のミニバスに乗り換えて、標高3600mのチバイに向けて出発。クムカのツアーは大まかな旅程を組んで宿を用意するが、各訪問先でのツアーはオプション扱いで追加料金を払い申し込む。そのため窓口はツアーリーダーだが、ツアーの仕切りは別会社となるのだ。
チバイ、コルカ渓谷行きはオプションではなかったが、山道を行くのでFranでは難しいということになり、クムカが地元の会社に外注した形だ。
アンデス山脈の上で見る朝焼けはすごかった。何しろ眠いので、半分ずつ目を開けながら真っ赤に染まり刻々と姿を変えるアンデスを見ていた。車内は標高と時間帯のせいですごく寒かった。
チバイでは一度宿にチェックインして朝食をとってからコルカ渓谷へコンドルを見に行く予定だった。
コンドルは羽をはばたかせず午前中の上昇気流に乗って飛ぶので、午後はほぼ見ることができないのだ。
しかしチバイの宿に着くワンブロック手前で、乗っていたミニバスが接触事故に遭った。横から大型観光バスが突っ込んできたのだ。その時私は熟睡していたのだが、音と振動で起きた。目を開けると頭上に透明の小さな塊が降ってくる。一瞬水かと思ったがそれは粉々になった窓ガラスだった。
幸い新しい車両だったのでガラスも丸く砕け、けが人は出なかった。私のすぐ前の座席にバックミラーが接触したのだけど、そこに座っていたレイチェルはクッションを頭と窓の間に挟んでいたので、事なきを得た。
インカではコンドルは天界を支配する神の鳥。2年に1度の大接近をしてくれた。予想以上に大きくて、近くに来られると本能的に身がすくむ。高貴な存在という感じがすごくしたし、そういう意味で怖かった。畏怖するような対象だ。
さてこの辺りは標高4400mくらいなので、アルパカをよく見かける。彼らはラクダのように、ひとりで歩いているのに何かに首を引っ張られるように歩く。首をぬっと突き出して座った姿なんて猛烈にかわいい。しかも彼らは人間に反応し、好奇心を見せる。他の動物は家畜でも野生でも、せいぜいエサをねだるか警戒して離れるかくらいで人間にあまり反応しないけれど、アルパカは目をぱちぱちさせて、「アラ何かしら?」と首をもたげるのだ。アルパカの毛刈りシーズンは11月と、寒くなる前の6月だそうで、ちょうど牧場を通りかかったとき、1頭が丸刈りにされていた。
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インカ・トレイル(Inca Trail)
2009年11月23日
かつてチャスキが走っていたインカ道を3泊4日で歩き、最終日の早朝にマチュピチュの太陽の門に到着するというトレッキングツアー、インカ・トレイルがいよいよ始まった。
本格的な登山もトレッキングもしたことがない上、山にトラウマがある私だったので、ギアこそ揃えてはいたものの不安でいっぱい。最高で標高4200mになるインカ道は、49km続くアップダウンで、予想通り体力的にかなりきつかった。
歩き自体は困難ではあったが、途中で雲霧林を通過したり、サボテンの花を見つけたり、周囲の山や木々を見たりすると、自分が自然の法則と強い生命力に取り囲まれていることが実感できた。またそれまで車窓から見るだけだったアンデスの山道を実際に歩けていることに喜びを感じた。終わってみると、こんな私でもやればできるものだなあと思ったし、その達成感は素晴らしい。天候には殆どずっと恵まれなかったが、曇り空や雨雲の合間にご褒美のように山の頂が突然姿を現すことがあった。
コカの葉の出番ももちろんあった。いくら合法で、ただの栄養価の高い葉っぱだと知っていても、コカインの原料、酒もたばこも添加物も嫌いな私は、最初はそんな刺激物にお世話になるつもりは毛頭なかった。けれどいざ歩き始めたらあまりにもきつく、あっという間に気持ちが萎えて何にでもすがりたくなり、人から貰ってがしがし噛んだ。ローカルのポーターたちは皆ほっぺたがペコちゃん状態になるほど口にためているが、これを噛むとがーっと力が出て、もう無理〜と思っていた坂も登れてしまうから不思議。
雨に降られ、シャワーも浴びられず、ひたすら歩き続け、4日目の朝やっと着いたマチュピチュはどんよりと曇っていた。マチュピチュにはインカの遺跡がすごくいい状態でひとつの都市として丸ごと残っている。石の加工場、野菜の育ち方や適正な環境などを知るのに適した段々畑、祭壇のようなものなど。いまだに解明されていない謎も至る所にある。石を見事に使いこなして水道設備や音響設備、農業までを見事に管理していた知恵は、一切の無駄がなく、エコで、どこにも継承されていないのが本当に惜しい。
色々見たい気持ちはあるにはあったが、大雨に見舞われる。壁はあっても屋根は残っていないマチュピチュで、傘も持たずに、大勢の観光客のいる中を歩き回る元気は残っておらず、昼にはアグアカリエンテスまでバスで降りてきてしまった。もっと言えば、インカはすごいけれど、そんな謎だらけのインカ帝国を包含するアンデスのほうにもっと惹かれていた。
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プーノ(Puno)
2009年11月28日
インカ・トレイルの後、ろくに寝ずにクスコで2晩遊んだら、さすがにパッセンジャーの半分くらいがダウンした。クスコはナイトライフが楽しい。標高高い割には踊って酒を飲む場所がかなりある。それまで禁欲的に早寝早起き生活をしていた上に、標高が高いところで極端な運動をすることをセーブしていたので、その反動で猛烈にクラブに行きたくなったのだ。
しかし体は限界だったようで、それまでちょくちょく感じてはいたものの無視してきた胃の不調がそれを境にピークとなり、寝たきりに。
プーノに着くころには吐き気とどうにもならない体の辛さに泣けてくるほどだった。エミリーも泣いていた。ハリーもぐったりしていた。3人まとめて診てもらうべく、ホテルに医者を呼んでもらうと、疲労と食事が原因とされ、抗生物質を処方された。しかし病名はなかった。
私たち3人はペルー最後のハイライトであるチチカカ湖へのツアーを泣く泣くキャンセルし、プーノのホテルで療養した。胃に優しいものを食べたいなと思ったが何も浮かんでこない。
キヌアのおかゆが、プーノの町のどこに行けばあるのか見当もつかない。仕方なく中華を食べにいった。
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