土地とは相性があることがつくづく分かった。しかし虫に刺されたことも含め、自然の嘘偽りのない姿をちゃんと見てきたと思う。観光客用に加工されたものでもない、自分の目で見た現実的な南米だった。飛行機にも乗らず、ずーっと地面の上を行けたことも良かった。
すぐスタミナ切れすることや、食品アレルギーを起こした過去があること、また色白敏感肌で日に長く当たると具合が悪くなることなどが不安要素としてはあったが、すべて杞憂に終わった。恐らく東京での会社員生活に拒否反応を起こしていただけなのだろう。というのは南米にいたときの私は、胃炎にこそなったが特に風邪をひくこともなく、アレルギーもなく、しっかり日焼けして黒くなった。帰国したら歯が妙に白く見えると家族に笑われた。よく見たら爪も白く見える。散々日差しを浴びても全く問題がなかったし、高山病の気配すらもなかった。
旅を続けるうちに筋肉もつき、最初は重くて腰の高さ以上持ち上げられなかったバックパックも一人でかつげるようになった。トラックのドアが重かったので、毎日生活して行くうちに自然と鍛えられた。手もごつごつしてきた。東京での生活に戻るとその大方は失われたが、自分の中の強さは少なくとも証明された。
旅は出会いに尽きる。出会わない旅もたくさんした私の結論としては、そういう旅は「旅行」と呼んで、旅とは区別したいところだ。
この旅は、自分が変わると出会う人も変わるといういい例だった。とても新しいことにチャレンジしてみたら、新しい風が吹いて出会いを運んで来た。現地のクラブにも行ってみたら現地の楽しい人たちがいて、一緒に踊ればその場の一員になれた。レゲトンはこうやって踊るんだよ、と教えてくれた女の子もいた。リオでは、サンバを教えてくれた子もいた。
離婚以来私は恋愛や結婚につくづく失望しており、男性とまともに心を開いてつきあえるとは毛頭思っていなかったし、尊敬できる誰かがこの世にいて、出会うことができるとも最早思えなかった。彼に会うまでは。
彼がいつも想定外の落ち着きと安定感で、愛を持ってちゃんと向き合ってくれるので、人とちゃんと関わろうと思えるようになった。彼との出会いは大きかった。彼は私が離婚によって決定的に諦めていた、ちゃんとした恋愛ができる可能性を見せてくれた。本当に理解しあう関係、信頼できる関係、計算や打算が入り込まない関係を、作れることを証明してくれた。
そして、バル。彼女は私が探していた生き方の答えを持っていた。どういう人間でありたいか、ということの答えだった。完全に自立した人間であること、そして周りとも決して決別せずに調和して行く方法を彼女は知っていた。
ハヤニも、かけがえのないことを教えてくれた。彼女のことを思い出すだけで、笑顔になれる。全ての事に頑張ろうと思える。今が今しかないと毎度思い出させてくれるほど、彼女は揺るぎない正直さで真正面からやって来た。
南米だけ見ていたら分からなかったかもしれないが、ツアーのパッセンジャーたちが欧米文化を色濃く見せてくれたおかげで、南米、日本、欧米の違いを見ることができた。日本人はルールにがんじがらめになって自分たちの首を絞めることもあるが、その反面、どんな仕事にも誇りを持って従事する文化がある。それはモノを大切に扱う心、食べ物を粗末にしない文化などと共に、世界に誇れることだ。南米・欧米では低所得であればあるほど仕事に対するプライド、より良く仕事する個人の工夫は見られないし、誰もそれを期待しない。私は常に「日本には“職業には貴賤はない”という素晴らしい言葉があります」という言葉が喉元まで出かかっているのを感じていた。日本ではスーパーのレジの人だって実に優雅な仕事をする。
パッセンジャーたち、そして自然。南米の大地が、ガラパゴスと同様に、大きな自然の法則を見せてくれた。
自然は決して甘くないのだと、今回の旅で何度も思った。優しいけれど甘くはない。だから心構えができていない者、準備不足の者には容赦ない。海も山も砂漠も草原も湿原さえも、自然の中ではとにかくなめていたら命を落とす。だから私は山から落ちたし、その時は自然の法則に従って怪我をした。
ただ、反面とても優しい。自然の仕組みをよく見て理解し、敬意を持って接すれば、何でも与えてくれるし、共存することができる。その懐に抱かれて幸せな気持ちになれる。最低限必要なものはいつも自然の中にふんだんにあり、先住民族のように自然に近い暮らしを長く続けている人たちはそれを知っている。科学の力で自然の法則を思い通りに捻じ曲げなくとも、足りる方法を知っている。
毎日自然ばかり見る中で、ふと東京の生活を思い出すと、自然のルールが甘くないことを嫌って、人間は自然の気配を抹消して町をつくり、そこに自分たちのルールでもって支配する帝国を築いたように思う。人間は守られた世界、“社会”を作っている。個人の“苦労”が軽減されるようにインフラや税制を含むあらゆるシステムがあり、甘えきって生きていられる。その代わり大事なものを、尊厳みたいなものを、担保にしているようにも思える。都会では人工的なルールが張り巡らされており、自分で決めることをしなくてもことは進んで行く。
自然を観察していると、全てに秩序と絶妙なタイミングがあることが分かる。ショーペンハウアーが言ったように、混沌とした意志がタテ・ヨコ、時間・空間といった秩序の中に現れたのがこの物質世界・自然なのだ。その秩序をあらゆるところで遂行して、自然の秩序・法則を体現して見せてくれている生き物たち。
人間の場合、体は自然界に即しているが、意識だけは自然界から乖離して、人間特有の観念の世界に生きている。2つの次元に生きているのに、殆ど人間の意識が作ったルールだけしか気にしていない。そのため規模の大小を問わず自然と調和できずに様々な軋轢・問題を抱え込んでいる事象がそこらじゅうで見られる。とても賢い人や悟りを開いたような人が歴史上何人もいて、文書にしてその知恵を広めても、利益が絡むとあっという間にそんなことは忘れ去られて、安易で無責任なモノづくりが横行してしまう。
帰国して気になって読んだスピノザにも答えがあった。神即自然という、自分が感じていたことを理論的に展開していたが、自然の秩序だけでなく事象に関しても神の理性が展開されているだけなので、やるべきことをやって起きてしまったことに関しては、それは起きるよりほかなかったという内容だった。そして私はすごくほっとしたのだ。私の事故は、仕方のないことだった。虫に刺されたことも、山で泣いたことも。
私には地球はひとつの個性を持った生命体に見えるから、地球という場所がどういうシステムと目的をもったところなのか知りたし、分かる範囲でそれに沿って生きていきたい。ゴミや汚水の処理はちゃんとしたいし、自然に負担をかけるような洗剤やシャンプーは使いたくない。
ただ一方で人間なんてしょせん地球のような偉大な生命体にとっては人間の出る幕はない、対等な関係ではなく、同じ土俵にもいないのではないかと考える。南米に来るまでは、人間の科学力で繊細な自然の力を後退させているようなイメージがあったのだが、実際に手つかずの自然や、自然と共存している人々を見ると、それがあっさりと覆される。
自然の作った基盤の上にしか人はおらず、どう頑張っても人間に自然を壊す程の力なんてない。たとえ遺伝子をいじったり生き延びる筈のない人を延命させられたとしても。南米では、ガラパゴス含め、人間が外来種をどしどし持ってきて育てれば、それなりに自然は適応し新しい生態系をしなやかに発達させていた。自然治癒能力もあり全てを動かす能力があるのに、人間が自然を“守って”あげる必要なんて本当はなく、それどころかもう余計な手出しをしないで、自然の動きを、邪魔しないように黙って見ているしかないのではないかと思った。
そんな旅にあって、やはりSuperflyの「愛をこめて花束を」は私と南米のラブソングのようだった。トラックに乗って最初にこの曲がiPodから流れてきたとき、アンデスの景色を眺めながら、感極まって涙が出てきた。初めて聴いた時からやたらと好きになってはまったこの曲、人生を先取りするような歌詞だった。
ガラパゴスと私、南米と私、地球と私のこととしか思えない。
「約束したとおりあなたと
ここに来られて本当に良かったわ
このこみ上がる気持ちが 愛じゃないなら
何が愛か分からない程」
そういえば約束したのだった。1年前にガラパゴスに来たときに、きっとまた南米に来るからね!待っててね!と。
あのときガラパゴスに恋をして、南米がとても大事な場所になった。
私は南米の土地の、木の一本一本、川の一雫まで、心から愛を感じる。
大好きで大好きでいつまでも幸せでいて欲しい。たくさんすごい景色を見せてくれてありがとう。
半年もかけて南米を旅するなんて、以前の私からは想像もできないことだった。
雄大な景色を毎日見て、新しい文化に触れて、人の優しさに触れて、日常では絶対にできないようなやり方で他人と関わった。
これまでの私の人生になかった新しいことがたくさんあり、それを表現する新しいボキャブラリーもたくさん日記に並んでいる。「今」「ここ」しかない体験ばかりをし、何もかも1回きりで、喜怒哀楽の極端な、全てのトラウマと心の問題をほじくり返すようなこの旅。全ての物事の裏に大きな地球、自然のまなざしがあるような気がしてどきっとする。いつも満天の星空と美しい月が、大きな夕焼けと圧倒的な朝焼けが、迎えてくれた。自然は観客がいようがいまいが完璧で神々しい。そしてちゃんと心を開いて見ていれば、たくさんのことを教えてくれる。
私は泳ぎの下手な人が大海原に投げ出されたくらいの心細さと必死さでひたすら目の前のことをやって来た気がする。贅沢なことだ。