フォズ・ド・イグアス(Foz do Iguaçu)
2010年1月29日
国境を越えてブラジル側のフォズ・ド・イグアスにやって来た。もうスペイン語は通じない。まったく意味不明の発音で、どこで区切るのかすら分からないポルトガル語の世界にやってきた。
ブラジル側のイグアスではちょうど満月だったので、月に1度だけ開催される満月ツアーに参加。通常であれば閉館している21時頃イグアス公園へ行き、夜の滝へ近づくと、あっという間に水しぶきでずぶぬれになる。夜の滝もぬるいシャワーのよう。暗くても満月と滝が白く光るので、それを受けて虹が肉眼ではっきり見える。高砂淳二さんの写真で見たのと同じだ。少し輪郭は甘いが、色は出ているし、やわらかくてメルヘン。
夜見る滝は、とても存在感があり、大きく近く感じられる。流れ落ちる水を見て、まず恐怖を感じた。地球のスケールはとてつもなく、人間が感覚的に理解できるようなものではない。徒歩と泳ぎで地球を一周すれば分かるのだろうか。
イグアス国立公園に行く手前に鳥公園がある。1時間半くらいで一周できるかと思えば、なかなか規模が大きく、動物園と言ってもいいレベルだった。
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ボニート(Bonito)
2010年2月1日
次に訪れたボニートでは、世界でも有数の透明度を誇るスクリー川とプラッタ川でシュノーケリング。ウェットスーツとシュノーケルマスクをつけて1時間程川に流されたが、水に入ると音は聞こえず、重力も感じず、思考もストップして、全くの無、地球の法則からぽろっとこぼれおちたようにひたすら空っぽになった。
このあたりの川は環境保全の為、日焼け止め・虫除けを塗って入ることが一切禁止されているため、ここで全員ウェットスーツ型に焼けてしまった。脚の裏側の、腿の真ん中から足首の少し上までを真っ赤に腫らして、お揃いの日焼けを作った。
ボニートには「青の洞窟」と呼ばれる、年に1ヶ月ほどしか光が入らない洞窟がある。幸運にもその1ヶ月が終わろうとする2月初旬にボニートにいたので、何がそんなに青いのか見に行った。滑りやすい鍾乳洞を降りて行くと、奥の方から濃厚なブルーのもやが現れる。地下水の池があって、そこに日光が差し込み真っ青に反射しているのだった。じっと見つめていると、液体というより気体のように見えてくる、不思議な濃厚さを持つ青だった。これまでの自然の奇跡のような表情と同じく、これもまた、この時期の、ここにしかない色だ。
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リオデジャネイロ(Rio de Janeiro)
2010年2月12日
リオへ着いたのはサンバカーニバルの前日。心配されていた彼のアマゾン転勤のスケジュールも直前に延期となり、たっぷり過ごせることとなった。着いたその日に彼は友達と一緒にホテルまで迎えに来てくれ、3人でリオを観光。そして夜にはブロッコを追いかけ踊りまくった。
これはカーニバルのメイン会場ではなく、ストリートで行われるもので、昼夜問わずスピーカーとミュージシャンを乗せたトラックが行くのを、皆で歌い踊りながらついて行くのだ。特にラパ地区ではクラブやバーも夜中じゅう営業しており、どこも踊る人であふれている。ブロッコがひと段落したらアフリカンミュージックのライブ、そしてサルサバーとハシゴしてとにかく朝まで踊った。
カーニバルのシーズンに限らず、常に夜中でも交通機関が機能しているので、終電を気にせず夜遊びができる。ナイトライフを中心に町ができているようで、とてもエコとは言えないが、すごく楽しめる。
どの通りに行っても、朝の満員電車か金曜の終電かというくらいとにかく人でいっぱい、皆汗だくで、男性は殆ど上半身裸だ。ただでさえ暑くて湿度が高いのに、その上皆踊っているので汗だく。でもご機嫌そのもの。見ていると、見知らぬ人同士でタバコの火があたっても笑顔で「ごめんね」「大丈夫だよ」。ブラジル人がOKの意味でいつもやる、親指を立てる合図。これをやって終わりなのだ。これだけ人がいれば喧嘩がありそうなのに、ちょっとした諍いですら一切見なかった。リオは治安が悪いと散々聞いていたのに、この平和さと来たら何だろう。東京よりも皆ハッピーでにこやかではないか。
私はサンバなんて習ったこともないが、ローカルの老若男女に交じってリズムをとっていると、自然に体が動く。なんだか猛烈に楽しい!とにかく老人から子供まで踊っているのがいい。そして目が合えば笑顔。カリオカ(リオの人のこと)って素敵。
2日目からは、2夜続けてサンボドローモという、パレードが行われる会場へ。衣装も山車も絢爛豪華。出演者もすごければお客さんもすごい。サンボドローモに向かう満員のメトロの中で、皆歌って踊って大変な騒ぎ。車体を拳で叩きながらリズムを取って、電車は止まるんじゃないかと思う程揺れる。会場でもお客さんたちは、パレードを見ながらも足元は踊っているし、とにかく皆めちゃくちゃ楽しんでいる。ブラジル人は楽しみ方を知っているとよく聞くがその通りだった。(動画はこちら)
それ以降は彼とその妹が暮らすマンションに3日ほど泊まりに行った。妹は短期留学中で不在だったが、妹の彼氏と、彼の友達のカップルが泊まりにきており、合宿状態だった。そこへ彼の両親といとこ夫妻も遊びに来た。相関図は最早どうでもいいような雰囲気だった。それが南米なのかもしれない。ジャネットの家族もそうだったけれど、その場にいる人皆が家族というような包容力がある。
リオはこの期間カーニバル一色なのだけど、せっかくだからと少し町を観光。ウルカの丘に登り、コパカバーナ海岸やフラメンゴ海岸へ。大きな町なので自然や動物の気配は全く期待していなかったが、閑静な住宅街で見上げた電線の上を小さいサルが走って行ったり、手入れの行き届いた広場には見たこともない不思議な熱帯植物が実をつけていたりして、充分自然を感じることができる。
バスは信じられない速度で走り、メトロはきれいに整備されている。ビーチが近いせいか男性は街中でも半数が上半身裸。女性は体型・人種・年齢に関係なく、誰もが非常に露出度が高く、そしてのんびりしていて幸せそう。危険だから気をつけろ、ホテルから持ち出したものはなくす覚悟で行け、と散々色々な人に言われたが、いざ町に出るとそんな感じなので拍子抜けしてしまった。
5日間の滞在を終え、いよいよ次の旅がスタートする。彼ともしばらくお別れだ。
ここリオでは、キトから4ヶ月続いたツアーが一旦終了し、私は引き続きクムカではあるものの、また別のツアーをスタートすることになる。パッセンジャーはほぼ全員入れ替わり、ここからはツアーリーダー、ドライバー、トラックすらも入れ替わる。旅の終わりまで2ヶ月を切った。
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オーロ・プレット(Ouro Preto)
2010年2月17日
リオ以降は、パッセンジャーの数が7人と少ないこととメンバーの属性がバラバラなことがすべてを非常に楽にしてくれた。リーダーの人柄もあると思う。ジェーン&ジョナサンカップルのホスピタリティに、突然肩の力が抜けた。何でもかんでも皆一緒にやらなければいけなかった前半と比べて、独立独歩のバルが率先して自由行動をするおかげで私も気兼ねせず自由にできた。
ジェーンは惜しみなく、訪れる場所の歴史文化を教えて、土地のものを食べさせてくれた。
最初に向かったのは鉱山の町オーロ・プレット。ここで、人生初となる鉱山跡ツアーに参加した。
ミネラル豊富なブラジルの地底、で鉱石をちりばめた壁面を見ていると、ここが地球の銀行なのだなと思う。自然に蓄積され時間をかけて変形された木々や動物の死骸から、とてつもない時間をかけてエッセンスを取り出し、別のものへ変換して行く。ああつまりその作業はアルケミストが石を金に換えるのと同じなんだ、地球はアルケミストなんだ、そういう作業をずっとしているのだなあと思った。いつも一定方向に向かってゆっくりと、自転しながら変化している。地球自身に何か大きな計画があるかのように。
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カライバ(Caraiva)
2010年2月20日
高速道路を走っていると、豊かなブラジルの景色が広がる。畑も森も潤って元気そうで、肥沃な土地はどこまでも続く。大西洋森林はマンガ『風の谷のナウシカ』の「森よ森よ」「のびよのびよ」という、森が再生していくシーンを思わせる。これからどんどん育っていくという勢いを感じさせるのだ。川や沼があり、木々も緑豊か。
カライバという海岸沿いの小さい小さい村へ行った。3泊分の荷物と、テント、食料、調理器具を皆で手分けして持って、マングローブの森に挟まれた川を、手漕ぎボートで渡る。大西洋に面した、車もバイクもない村の中心の、ビーチに程近いキャンプ場。アサイーのシャーベットで口の周りを紫に染めながらビーチのバーでのんびり。
きれいなビーチの他には、生バンドがボサノヴァを演奏するおしゃれなバーと、たくさんのポサーダ。人々は日に焼けて、のんびりしていて、何でも絵になる。川沿いには大好きなマングローブが茂っており、ボートでその間を行けるのもまた嬉しかった。
のんびりしたこの村では、じっくり話をする時間も自然に生まれる。パッセンジャーとクムカのスタッフをあわせると10人中4人が離婚経験者だということが判明した。理由は様々だけどつまるところ、自分は旅に出る人で、パートナーはそうではなかった、という表現を皆していた。それは決定的に生き方の違うことの比喩で、ここが違うとあらゆる局面でずれてきてしまうということは肌で知ったばかりだったので深く共感した。
イタリア人のバルの単独行動が始まった。テントは嫌だからと、キャンプになるときは予め近くの宿を別途料金を払って泊まっていた。団体で仲良くするよりも自分の気持ちのいいことをしたいという個人主義ではあったが、それは前半で否応なしに団体行動をする中でストレスをため込んだ私にとっては一筋の光のように見えた。彼女の譲れない条件は、トイレ・シャワーが共同でないことと、テントの準備と撤去にかかる時間と労力を割かないということに尽きた。その他の食事、後片付け、トラックの中の掃除等の雑務には積極的に参加した。
団体行動を乱すつもりはないが、自分の譲れないラインだけは明確にするというスタイルだった。これまで国連の職員として国境なき医師団などとアフリカの難民キャンプをメインに仕事をしてきた際、様々な価値観の違いに晒された中で作り上げたものなのだろう。洗練されていて、摩擦も生まず、筋が通っていた。無理して合わせる日本のスタイルに汚染されていた自分を思い知らされた。こういう道があったではないかと。
村に一軒しかないネットカフェで地元のおじさんと話し込んだ。この人は趣味がパラグライダーとのことで、その魅力について滔々と語ってくれた。曰く、空にいるとまったくのトランス状態になれて、至福なんだそう。最長で7時間も飛んだこともあるらしい。でも地上の生活とのバランスも必要なので飛びすぎないようにしていると聞き、ふと空の世界への興味が頭をもたげる。
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イタカレ(Itacare)
2010年2月23日
バイーア地方のイタカレに向かう道中、道路脇にナマケモノがいた。ローカルの子供たちが抱っこしていたのを見つけたジェーンがトラックを止めてくれたので、皆で見に行った。そこらへんで保護したであろうナマケモノをペットにするローカルの家族。
初めて間近にナマケモノを見た私は予想外のかわいさにすっかりやられてしまった。本当はナマケモノというのは力が強いので、人が抱っこすると爪が食い込んだり強く圧迫したりして危険らしいのだが、この子たちは人間に慣れているらしく、そんなことはないようだった。
到着したイタカレはビーチ沿いの、何ともご機嫌な町。フォホというブラジルのペアダンスに挑戦して、カポエラも初めて間近に見ることができた。後にも先にもテレビと比べても、ここで見たのが一番レベルが高かった。
パラグライダーにも初挑戦。カライバでおじさんにパラグライダーの魅力を力説されたことがかなり効いていた。町から1時間以上車で大西洋森林を走り抜けポイントまで移動するのだが、そのときふと自分のこれまでの生き方について考えた。
私は罪悪感をいつもなんとなく抱えており、自分を責める気持ちが強く、それを何とかするという図式で向上して行く。例えばアルプスで不注意から山から落ちた自分、サンチャゴで盗難にあった自分など、あらゆる場面で自分を必要以上に責めていた。なんでそんなことに突然気が付いたのだろう。寛容なブラジルにいるからだろうか?
そして、今日初めて飛ぶのだから、飛んでそれらの気持ちを手放してしまおうと思った。もう過去のことにして、これからは自分を責めないようにしようと。
大西洋と大西洋森林を眺めながら、タンデムで1時間程飛んだ。確かにおじさんの言うように、すごく非日常的な気持ちになる。近くをハゲタカが飛んでいて、静かで、風の道が張り巡らされているのが分かる。インストラクターはその道に上手く乗って、自由自在に動きをコントロールしていた。夕日が沈む時間帯だったので、また地球の自転と、丸さとを感じてぼーっとなった。
だがあまりにも慣れない感覚なので最後の方は乗り物酔いのようになってしまい、気持ち悪い!とポルトガル語で言えないのでインストラクターに意味不明の言葉で訴えて何とか着陸させて貰った。飛ぶ瞬間は頭の中で『風の谷のナウシカ』のメーヴェが飛び立つシーンの音楽が大音量で流れていた。
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モホ・デ・サンパウロ(Morro de São Paulo)
2010年2月26日
モホ・デ・サンパウロという島で2泊し、滞在中はずっと海で過ごす。波が殆どないような穏やかな海で、泳ぐと言うよりただ浮いていた。サンチャゴから参加していたロレーンと、このあたりから色々な話をするようになった。エメラルドグリーンの海でゆらゆら浮きながらのコイバナ。
この小さな島には車がほとんどない。必要ないのだ。その代り手押し車がある。手押し車には、「TAXI」と書いてある。そう、船で到着した観光客の荷物を宿まで運ぶ運ぶポーター役を果たしているのだ。階段や坂が多く、砂で覆われた道が多いので、荷物を運ぶにはこれが一番なのだろう。
ここで初めてバイーア料理、ムケカに出会う。ブラジルの炭酸飲料「ガラナ」に次いでハマったものがこのムケカだった。デンデ油で魚介を煮込んだ鍋料理なのだが、見るからに重たいのにどんどん食べてしまう。ムケカにハマって以来完全に体重が増えていった。
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サルバドール(Salvador)
2010年2月28日
島から今度は町へ。と言っても港町なのでまだまだ海が近い、バイーア州の州都サルバドール。「黒人のローマ」と呼ばれるポルトガル領時代のブラジルの首都で、奴隷の歴史が色濃く、アフリカの文化を至る所で感じる。アフリカの郷土料理、黒人密教の儀式カンドンブレー、そしてカポエラなど。人々も南部と違って殆どが黒人だ。
サルバドールに到着してトラックを降りた直後、現地コーディネーターさんがひったくりに遭った。決して治安がいいとは言えない町なのだ。その為私は到着早々、この町に対する好奇心が育つ前に警戒心が一気に高まり、ちっとも楽しめそうな気がしなかった。
でもこの場所に対して後ろ向きな気持ちを抱きながら3日も過ごすのはあまりにも勿体ないし、そんな気分でいること自体が嫌だ。そこでまず、カフェから通りを行く人の楽しげな様子を観察した。彼らの目を通して、この街並みを見るようにした。するとさっきまで怖かったサルバドールの旧市街が、突然異国のわくわくする風景に替わり、楽しい気持ちを運んで来てくれたのだった。こうやって自分の先入観をちょっと脇に置いて、視点を変えて見てみるといいのだと、このとき学んだ。
基本的に治安は悪いが、地元の人に「この通りには入らないほうがいい」と言われた場所をちゃんと避け、気を付けて歩く分には問題はなかったので、バーハ海岸までローカルのバスに乗って一人でお出かけ。知らない土地で一人遠出するどきどき感が、子供に戻ったようだ。毎日こういう感覚を味わいたい、毎日知らない土地に行きたいと思う。
コーンロウの屋台が出ているのでやってもらった。安かったけど、地肌から血が出るほど髪をひっぱられた。ヘナタトゥーも路上で安くやってくれるが、ブラジルは黒いヘナが主流で、これはアレルギー体質の人もいるとの話なので、お勧めはしない。
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マセイオ(Maceio)
2010年3月3日
ブラジルにはたくさんのビーチがある。マセイオは『地球の歩き方』にも載っているけれど、地図にも載っていないカライバを先に行ってしまうと、どうしても見劣りしてしまう。
私たちはビーチから近いキャンプ場に泊まったのだが、夜水を買いに少し外を歩いたら売春婦がいた。キャンプ場に戻ったら銃声が4回聞こえた。近くのホテルで警備員が発砲したらしい。これはブラジルでは普通なのだろうか?
翌日は天然プールに繰り出し環境汚染に加担。要するに遠く離れた浅瀬までボートで行き、飲み食いしてシュノーケリングをするのだが、どうしても回収しきれないゴミは出るだろうし、魚を集めるためにエサをまいたりして、楽しい反面居心地が悪かった。
その後インターネットカフェに行くメンバーだけセントロへ。町はごちゃごちゃと埃っぽく汚かったが、これはこれで好きな感じだった。
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オリンダ(Olinda)
2010年3月5日
オリンダは1泊だけだったが、恐ろしい程の坂道と、いつまで経っても順番の回ってこない郵便局が印象的だった。サルバドールで髪型をコーンロウにして以来、地元の人によく話しかけられる。嬉しいことだ。
夜景のきれいなレストランで食事。転げ落ちそうな坂を上って行った。
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キャノーア・ケブラーダ(Canoa Quebrada)
2010年3月6日
海岸沿いを北上するにつれ、車窓から見える植生はまた変化し始める。大西洋森林は姿を消し、それに代わって突然乾いたな風景が現れ、サボテンが顔を見せ始め、木々の背はまた低くなる。それからまたポツポツとヤシの木が姿を現わしてパンタナールのようなシルエットになってきたな、と思ったら静かに夕日が沈み始めた。
それをひたすら眺めながら考えた。はじめはただ太陽よありがとう、そしてこの自転している地球よありがとうと思った。このすごく大きな規模で展開される緻密な世界、ありのままをここまで無駄なく遂行することで成り立つ世界、地球のあり方から学べることは何だろうか。自然はそれぞれが自分の役割を充分に果たすことで周りに良い影響を与え、それで全てが成り立っている。そういうふうに、できているのだ。人も無理に他人や社会に合わせようとし、やりたくない仕事をしても何にもならないのではないか。自然界にあるものは、各々が与えられた役割を何に気がねすることなく実現することで全てが成り立つのだから。太陽ですら。
そんなことを考えていたら、キャノーア・ケブラーダに着いた。
この特に何もない小さい港の町では、そろそろ地肌を洗えないことがストレスになってきたのでコーンロウをほどき、地元の小さなヘアサロンに行ってカットを頼んだ。バルとカメラマンの女性が先にチャレンジしてきたのを見て、自分もやってみたくなったのだ。
シャンプー台には洗髪に不要なものが色々と収納代わりに入れてあったが、それをどけるでもなく美容師は適当に私の髪を濡らしたあと、文房具屋で見るような先の丸いハサミで、じゃきじゃきとやりにくそうに真横に切り始めた。
もはや切り揃えて貰うことも望めないことが分かった。左右の長さを揃えようとすればするほど短くなっていくので、適当なところでお金を払って出てきた。10レアルだった。
私は最早おしゃれや着飾ることから遠去かっていたので、その体験自体は充分楽しめた。半年の旅でメイク道具の出番は5回程度。服はどうせ汚れるので何でも良かったし、太ったり日に焼けたりすることも、大したことではなかった。それよりも私の心が何を感じることができるか、どういう気持ちで現地の文化や風土と関わるか、ということを真剣に気にしており、渡航前とは既に180度価値観が逆転していた。
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ウバジャラ(Ubajara)
2010年3月9日
トラックは熱風を受けながらサボテンと砂地の景色を通り抜け、標高800mの涼しいウバジャラ国立公園(Parque Nacional de Ubajara)の鍾乳洞をたずねた。
コウモリの臭いの中でふと気付く。私は今、天然のろ過装置、浄水器の中にいる。降った雨が岩の炭素と反応しミネラルを溶かしながら通過して、地下水になる。その過程で岩の形が変形してこんな不思議な形の洞窟ができた。昔々大量の水をろ過したフィルターなのだ、ここは。
奇しくも私はフリーになる直前浄水器の会社で3年半働いていた。その商品のコピーが、自然に学んだシステムというような主旨のものだった。私は広報担当として何度も口にして、書いて、読んでもいたのに、はっきりと目の前でそれを見たとき、自分が何も分かっていなかったと思った。
おかしな話だけれど鍾乳洞の中で一人、偉大な同業者(創業者でもあるが)に出会ったような気持ちになっていた。
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バヘリーニャス(Barreirinhas)
2010年3月10日
かなりの悪路を、車両を乗り換え乗り換えバヘリーニャスに辿り着いた。途中立ち寄った小さな町でゴミを捨てようとゴミ箱の場所を聞いたら、地元の人が空き地を指さした。そうではなくゴミ箱に捨てたいという意思表示をすると、そこでいいんだよ、とニコニコ悪気ない反応。南米のイナカの至る所でゴミを見てきたが、こういうことか。
バヘリーニャスは小さい町だけれど、ここはレンソイス・マラニャンセス国立公園(Parque Nacional dos Lençois Maranhenses)への玄関口。この時期は乾期の終わり。本来ならそろそろ雨が降り始める時期なのに、異常気象なのかまだ降っていないとのことで、一面に広がるのは干上がった砂漠と事前に聞いていた。いわゆる世界屈指の絶景としてテレビや雑誌で紹介されるレンソイスの景色とは違う。運がないな、と思いながらジープに揺られ国立公園に向かう途中、ところどころ草の生えた砂地の中に、フクロウがいるのを見つけた。フクロウは賢者のような目でじっとこっちを見ており、一瞬目があったように思った。まだ夕方だし、木もないところなのに。良いことの前兆に思えた。そして、それは当たっていた。
足が埋まりそうになるさらさらの砂丘を苦労して登り、ぱっと視界が開けた瞬間の衝撃的な景色。どこまでも広がる真っ白い砂漠。非現実的で、別の惑星のようで、心に迫るものがあった。駆け出したいのをぐっとこらえてふらふらと歩いた。おいでおいでされているような気持ちになる。砂のエッジのラインが、ゆるぎないシャープさがビエドマ氷河とも似ていた。何だか無性に、笑い出したいような、幸せな気持ちがどんどん湧いてくる。どこまでも歩いて行きたくなった。快楽ホルモンが出た。
後にこのシーンが番組でオンエアーされたとき、砂にクリスタルが混じっていることを知った。単なる砂ではなかったのだ。皆ではしゃいで遊んで、夕日が落ちるまで堪能した。来られて本当に良かった。正に、ここにしかない景色だった。こんなこともできるのか、と思った。地球には私の知らない姿がいくらでもある。全ては無理だろうけれど、死ぬまでにできるだけたくさん見てみたいと思う。間違いなくその中でも希少性の高いこの場所は、とてつもなく緻密でスケールが大きくクリエイティブな地球の、とっておきの姿だ。水があるときにはまた違った表情を見せるのだろう。また行かなければ。
またバヘリーニャスからは他にも川沿いにちょとした集落まで観光に行くことができる。バッソーラスという村ではサルなどの動物に会えるということだったが、会えるどころではなく、サルは図々しくも私たちの飲んでいたガラナめがけて突進し、ドナがちょっと怯えて離れた隙に、缶を奪い取って飲み干した。(動画はこちら)
テーブルに零れ落ちた滴まで嘗め尽くすと、私の手に持ったガラナ缶を物欲しげに見つめる。こんな堂々とされるとちっともかわいくないので私はあげなかった。第一銀座のネズミのように糖尿病になるのではないだろうか?
ガラナ(Guaraná)というのは炭酸飲料で、コカコーラが出しているKUAT(クアッチ)とAntarctica社が出しているGuaraná Antarcticaがメジャーだ。ブラジル以外では殆どお目にかからない。
ガラナというアマゾンで採れる木の実が原料なのだが、滋養強壮効果があるらしく、暑くてバテそうなときにいくらでも飲めた。ガソリンスタンドにトイレ休憩に止まる度にガラナを買って飲んでいたら大変なことになるので1日2缶までと決めたのだが、それでも現地の肉と豆中心の脂っこい料理のせいもあり、充分太った。
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サン・ルイス(São Luis)
2010年3月12日
バヘリーニャスから長距離バスに午後乗り、夜サンルイスに到着。美しい旧市街にはカポエラのスクールがいたるところにあり、ビリンバウの音色が聞こえてくる。
さてブラジルの料理は基本的に重くて脂っこく塩辛いためさぞかし栄養が偏るかと思いきや、ここには豊富な種類のフルーツがあるので、これで野菜不足を補っているようだ。また暑い割にはエアコンのないところも多いので、体を冷やすトロピカルフルーツをとらなければ熱中症になりそう。
どんなに安い宿でも大体朝食にはメロン、パパイヤ、スイカ、バナナ、パイナップルなどが出る。アマゾンに近づくにつれて、どんどん知らないフルーツの名前を耳にするようになる。
道端でもレストランでも、生のフルーツをその場でジューサーにかけて作ってくれる。私が特に好きだったのはパッションフルーツ(マラクジャ)とパイナップル(アバカシ)。クプアスーも甘酸っぱくておいしい。
アサイーもアマゾンの植物。収穫時期があるので、大抵冷凍にしたものが出回っている。店の軒先に「Têm Açai(アサイーあります)」と手書きのボードがぶら下がっていたりして、シャーベット状のものが売られている。都会ではアサイーバーが流行っているらしい。アサイーはほかのフルーツとちょっと扱いが違うよう。ちなみにシャーベットに、グラノーラ、バナナ、ハチミツなどをトッピングできる。
熱中症対策というとAgua de Cocoもあるが、これはブラジルに限らずココナッツがある地域では売られているかと思う。ココナッツの上部をマチュテで切って、ストローを差して飲むだけ。このココ水はミネラル豊富で、脱水症状にもいい。
これだけ聞いたことのないフルーツがあるというのは、衝撃的だった。ジュースのメニューだけでなく、コスメのパッケージにも知らない植物の名前がいっぱいある。
ブラジルはアマゾンの恵みをいっぱいに受けて、殆ど独り占めにして、いいな〜、ちょっとは輸出してくれよ、と思う。
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ベレン(Belém)
2010年3月14日
アマゾン川の河口に位置する大都市ベレンでは、船旅の準備。この後5泊6日かけてアマゾン川をフェリーでのぼり、アマゾンの中心に位置する都市マナウスまで行くので、フェリー内で吊るすハンモック、蚊対策の服、食糧や水などを、ヴェロペーゾ市場で購入した。
フェリーの中に持ち込む荷物とトラックに残す荷物を仕分けするべく、自分の全所持品を目の前に広げた。これだけの量で半年も過ごせるのだ、その気になれば。またこの中で、自分以外の物質は全て消耗品だ。あれもこれも消耗して捨てて、代わりに買えてしまうもの。そんなものを循環させながら人は生きている。
家に残して来たたくさんのモノたちを思い出し、何であんなに必要だったのだろうと思った。今のように生活がシンプルではなかったからだろうか。
いよいよ港からフェリーに乗り込み、狭いキャビンに荷物を置いて、ローカルな空気満載のデッキにハンモックを吊るしたが、出発は24時間の遅延となった。
トラック2台とそのドライバーたちは別の車両用フェリーに乗って行き、フェリーの運航スケジュールが合わない場合に備えて、先にマナウスの先のボア・ビスタまで行くことになっていた。これでは彼らをボア・ビスタで大幅に待たせることになりそうだった。
また、彼もちょうどリオから空路でマナウスに向かっているはずだった。アマゾンへの出発が大幅に遅れていた上に、マナウスからいつアマゾンの勤務地に行くのかすら決まっていないらしい。運が良ければマナウスで会えるかもしれない。この遅延が吉と出るか凶と出るか。
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アマゾン川上り(Amazon Cruise)
2010年3月17日
フェリーがやっと動き始める。ブリチーとアサイーの木を両岸に眺めながらゆっくり川を上る。
フェリーは川の中央ではなく端を走る為、岸辺の植生や地元の人の家までもよく見える。
両岸にぽつぽつと牧草地、民家、そしてパッションフルーツの畑が見える中で、唯一近代的な物と言えば、貯水タンクと巨大なテレビアンテナくらい。ブラジルではどんなイナカの集落の貧しそうな家でもテレビだけはちゃんとあった。そして、こんな味噌汁みたいな色の水でも、皆川で洗濯をしている。
フェリーの水道から出てくる水もそう変わらず、アマゾン河を薄めたような薄茶色だった。こんな水で歯磨きして大丈夫だろうかと思うのだが、特におなかを壊すことはなかった。
フェリーは優雅な豪華客船などでは全くなく、飛行機よりも安価な地元の人たちの交通手段であり、乗客の殆どがローカルのブラジル人だった。彼らは非常にフレンドリーで、いつでも笑顔で挨拶してくれるし、お菓子やフルーツを分け合う輪に入れてくれた。
料金は2階のハンモックスペースが一番安い。3階のハンモックがそれよりも高く、私たちの泊まったキャビンは一番高いのだが、ものすごく狭い部屋に2段ベッド、写真を撮る気にもならなかったバスルームが付いている。
アマゾン川は広くて濁っていて、たまに川イルカがジャンプする以外はとても静か。この船旅では、川が森林を育成しているのだと感じた。そして川は、何でもかんでも受け入れてくれそうな顔をしている。モップも排泄物も、バナナの皮も。
実際私の乗っているフェリーからは色々なゴミが落ちてゆくのが見える。乗客が捨てたり、風で飛ばされたりするのだ。それでもなんだか、受け入れて貰えそうな気になってしまう。いいわけがないのに。
初めは特にイベントもなく、暇で暇で、出口のないことを考え過ぎたあまり、パスカルの「人間は考える葦である」、デカルトの「我思う故に我あり」という2つの名言が頭の中をぐるぐると廻る程だった。でも暇さ加減は皆同じなので、乗客同士の会話は増える。
特に同室のバルと濃い時間を過ごした。独立独歩の人生を歩んできた彼女には物事に対する独特の距離感と哲学があり、非常に学ぶことが多かった。
人には決して甘えないけれど、いつも人のことをちゃんと見て、必要であればサポートする姿。人には理解されなくとも、自分が自分の一番の理解者であるという徹底した意識など。私がこういうふうに生きたいと漠然と思っていたイメージを、彼女は体現しているように見えた。
彼女は全てのキャリアを投げ打って、旅に生きていた。そして常に周りをよく観察していた。私のこともよく励ましてくれたが、時には耳の痛い指摘もしてくれて、とても感謝している。
バルは日焼けとタバコが肌に悪いと熟知しているのにどっちも大好きだから絶対にやめない、やんちゃな40代。賢く、自己完結しているのにかわいいところがあって、大好きになった。
ひたすら大きな川と両岸のジャングルを見るだけの船旅では、港に着くことと夕日を見ることが2大イベントだった。港に近付いているらしいとの情報が乗客の間を流れると皆楽しみでそわそわするのだ。港に着くと、人とモノが行き来する。食べ物を売りに子供が乗って来ることもある。
また毎日すごい夕日が見られるので、皆夕方5時頃からデッキに集まり始める。夕日は毎日全く違って、毎回ドラマチック。地球がぐいぐいと力強く自転しているのが肌で感じられる瞬間だ。人間の力なんて所詮ちっぽけなのだと実感する程の規模で、夕日を見る度に、アマゾンのこと愛しているよと思った。そして愛されているとも。
ひとつも曖昧さがなく、緻密で美しい、圧倒的な南米の自然。夕日は見るたびに卵を割って落とすような速さで落ちて、予想以上に速いのでびっくりする。夕日が沈んだ後は月が昇って、それからプラネタリウム並にすごい数の星が出る。信じられないくらい視界が広い。
めったにないチャンスなので偉大なアマゾンと対話してみようと川を向いて座り込み、「アマゾーン!」と心の中で呼びかけたら、ハヤニとハヤラが走ってやって来た。後半はこのかわいい6歳と5歳の姉妹とよく遊んだ。考えてみたら私にこれくらいの年の子供がいてもおかしくはないのだ。不思議な感覚だった。
二人は私をお絵かきする紙をくれる人と思っているらしく、しょっちゅう紙をねだられる。そして私も一緒になって、大人になって以来長らく封印していた、描くということをした。高校生の頃まではよく絵を描いていたのだが、日本の大学に通い始めてから、そういう集中の仕方ができなくなってしまい、そうなるとどんどん下手になるので、それが嫌でもう描かなくなっていたのだ。
フルーツやお菓子を一緒に食べたり、絵を描いたり、一緒に雑誌を読んだり。言葉は全然分からないけれど、特にハヤニがよくなついてくれた。私にとっても彼女は特別なところがある子供だった。
ある日手をつないで夕日を見にデッキに行った。その時から様子がおかしかったのだが、ハヤニはいつもと違って、全く子供っぽくない真剣なまなざしで、静かにじっと夕日を眺めていた。何かポルトガル語で質問をされたけれど、私には5%も分からなかった。
いつも好奇心でいっぱいの顔をして、何かおもしろいことを思いついたように笑っているハヤニが、にこりともしない。喋って共有できればどんなにか良かっただろう。すごく理解したかった。
でも彼女は甘える素振りすら見せない。一生懸命考えているようだった。年相応の無邪気さを持ちつつも、見事に自己完結した子供だった。
まっすぐ生きるんだよ、誰にも邪魔させたらダメだよ。きっと子供の頃の自分にも言いたかったんだと思う。ずるい方法でねじふせてくる人、コントロールしようとする大人も出てくるかもしれない。けど自分を信じてね、と。伝えられなかったけど。
ハヤニとハヤラは、普通の家庭の5人兄弟の末の二人なので、かなり放任に育てられたのではないかと思う。けれど兄弟たちは揃って皆礼儀正しく、すごくいい子たちだった。何かをもらったら、決してないがしろにせず、ずっと大事に持っている。お菓子を一緒に食べていたら、私が握っていた包み紙を、ゴミ箱に捨ててくるから、と手を広げさせて持って行く。何気ないところで、細かな気遣いを見せる。
最後はマナウスのきらびやかな港が近付いてくるのを抱っこしながら一緒に見た。たくさんの大切なことを教えてくれた子たちだった。言葉は全く分からなかったけど、気持ちはしっかり通じた。言葉でなんとかしがちな自分が、言葉以外のことですごく伝えよう、理解しようとした貴重な相手だ。大人になったら私のこと忘れちゃうかもしれないけど、私はずっと忘れない。
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マナウス(Manaus)
2010年3月22日
マナウスに着いたのは日も暮れた夜の9時頃。港で彼の姿を探す。
24時間の遅延についてはメールしておいたのだが、到着時刻はかなりアバウトにしか伝えられなかった。本当にいるかは半信半疑だったのだが、いてくれた。港で待つのはロマチックだね、とにっこり笑って。
翌朝にはもう1泊2日のジャングルツアーに出発なので、町に戻ったらまた会う約束をした。
子供の姿を見るとすぐハヤニを探してしまう自分がいて驚いた。もう会えないと思うと悲しくて切なくて泣けて来る。養子にすると申し出れば良かった、と馬鹿なことを考える始末。
車両を何度も乗りかえてジャングルの中のロッジへ到着。マナウスのジャングルは意外とワイルド一辺倒ではない。人が住んでいるせいなのか、文明を感じるところもあり拍子抜けした。
しかしジャングルを実際に歩いてひとつひとつの植物の説明を受けると、やはりアマゾンはタダものじゃない。信じられないサイズの巨木や、ミルクの出る木など。極め付きが、「歩く木」。一見普通の背の高い木で、幹の下部が何本にも枝分かれしてタコ足になっている。これでどうやって歩くかというと、進行方向に向かって後方の根が枯れ、前方に新しい根が生えるという。それを繰り返して年間10cmも移動する。
植物は自力で動けないという常識を覆すとんでもない木だ。
無造作にのびるアサイーの木、すごく美味しいバクリーやクプアスーの実、色々な薬効を持った植物、巨大なシロアリの巣、タランチュラ等々、アマゾンはやっぱり凄かった。恵み豊かなアマゾンは、この旅の最初にエクアドル側から行ったときにも思ったが、人を拒まない感じがする。パワフルだけど何でも受け入れてくれる。
ベタにピラニア釣りをして、夜はナイトクルーズへ。蛙の大合唱がわんわん夜にこだまして、夜の川もにぎやかだ。ガイドが夜の川に飛び込んで素手で捕まえてきたメガネカイマンの子供を触らせてもらう。手足はぐにゃぐにゃと軟骨だけでできているような柔らかさで、皮膚も柔らかいのに、腹や背中は骨か甲羅のような硬さ。
爬虫類好きな私にとっては、大興奮のひとときだった。ジャングルの中ではカイマンの白骨にも出会い、アマゾンの思い出にひとかけら貰って来た。自分たちで釣ったピラニアのスープをランチにいただいて、ロッジを去る。
ところでブラジルには、都会でも田舎でも、肉眼でやっと見える程度のサイズの、とても小さい蟻がいる。小さ過ぎて払う気にもなれないのだが、壁、テーブルの上、ケーキやパンの上と、そこらじゅうをうろうろしている。気付かずついうっかり食べそうになるし、きっと既に何匹か食べているのだろうと思う。でも小さすぎる虫はすでに虫という感じがしない。だから食べたとしてもイヤだなあと思わない。
虫は土や水と協力して一緒に植物を育て生かしている。つまり土や水と殆ど同じ働きをしている。色々な物質と反応して、溶かしたりくっつけたりして周りと一緒になって自然の営みの一部となっているという意味では、虫の働きは土、水、空気、あるいは植物や動物の体で起きているのと同じもの。個体を持って単独で動くことができるというだけの違い。
これは魚でも他の動物でも言えることだけど、彼らの日々やっていることは、全て自然の生態系を成り立たせるという意味で地球レベルのグローバルな作業の一部を担っている。獲物をつかまえて食べることである種が増えすぎるのを防ぎ、排泄しては別の生物に栄養を与え、交尾して種を存続させ、その種として担っている機能を継続させる。そういう意味では人間以外の生き物は大きなシステムの一部で、この地球の一部。虫は土の一部で、植物を育てるお手伝いをしているのだ。
それがアマゾンのジャングルなんかを歩いていると、ひしひしと伝わって来た。
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ボアビスタ(Boa Vista)
2010年3月24日
ジャングルからマナウスに戻り、彼と食事をして、その日の夜にはもう夜行バスに乗って、ベネズエラとの国境に近いボア・ビスタへと出発した。それが本当のお別れだった。この先旅の途中で会うチャンスはもうない。この後私は日本へ帰って、彼はジャングルの奥地で軍医として年末まで働いて、その後でないと会えないのだ。
サルタで出会ってから、サンチャゴ、ブエノス・アイレス、リオ、マナウスと、全部で5回、3ヶ国で会った。その度に、昨日別れたばかりみたいに違和感なく一緒にいた。同じ周波数を出しているのかと思う。
ボア・ビスタで、先に到着していたクムカのトラックに乗り替えた。ベネズエラの国境へ向かうにつれて景色が徐々に変わって行く。山のシルエットが見られるようになり、ブラジルともお別れの時が来た。ブラジルにいるときは当たり前のようにいつも飲んでいたフルーツジュースが後で絶対恋しくなるからと、最後にボア・ビスタでパイナップルのジュースを頼み、何とも言えない気持ちで飲んだ。これがサウダージか、と思っていた。
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