横浜を出航
合格通知後、すぐに勉強会が始まった。船内のボランティア通訳はCCと呼ばれる。72回クルーズのCCは全部で12人いた。スペイン語2人、英語10人。半分くらいは海外在住者で、横浜からの出航となるため自腹で一時帰国した。
あっというまに時は経ち、2011年1月23日、横浜から大きなオセアニック号に乗った。東回りの世界一周の船旅がスタート。初日から訳もわからずとにかく働いた。
最初の担当は「おりづるプロジェクト」だった。広島・長崎の被爆者の証言活動が主な内容で、横浜からタヒチまでの2週間はオーストラリアのウラン鉱山に反対する活動家と、タヒチで核実験の際被曝した住民の権利を求める活動家も乗船しており、フランス語、英語、日本語の飛び交う会議での通訳となった。
フランス語から日本語への逐次通訳を聞きながら英語に同時通訳したり、何もかも初めてのところに体当たりで飛び込んで行った感があったが何とかなった。
4人でチームを組んで臨んだことだったし、日仏の訳を一人で担当した仏人女性がいたので、彼女の奮闘ぶりを見ていると私も頑張ろうと思えた。
CCは忙しいと聞いていたけれど本当に忙しかった。あまりにも時間がないため、食事は5分かそこらで済ませるしかなかった。
担当している水案(ゲストの講師)やプロジェクトのほかにも単発で訳をすることになるし、その準備に充てる時間もかなり必要だった。資料を読んで、打ち合わせをして、訳語の下調べをする。
東回りの航路だったので、時差が発生する日は、1日が23時間になる。それなのについつい気の合う仲間と遅くまで話し込んだり、深夜のバーで踊り狂ったりして、常に睡眠時間は短かった。ハイになっていたのかもしれない。
どれだけ遅くなっても終電の心配がないというのがよかった。私の部屋は4階にあり、殆どの時間を8階か10階で過ごす。5分もあれば移動できてしまうのだ。
仕事の時間は増えるが、息抜きのような個人的な企画の通訳も楽しい。大真面目な社会問題のときと違って砕けた言い方で訳す。普段からよく知っている人の訳は比較的気楽だ。
赤道を最初に超えたとき、赤道祭があった。のちに海を渡ってブラジルに行った日本の移住者たちも船の中で行ったと知った。
学園祭のような青臭いノリではあるけれど、日本の学校を殆ど経験していない私にとっては新しかった。
サルサの先生、CCちひろ主催の深夜の知的しりとり、CCの誰かの部屋に集まる部屋飲み(カフェ)、企画ごとの司会。
自分で手をあげて企画した最初の講演はアボリジニ文化を紹介するものだった。CC全員で歌って踊る機会もあり、CCナンシーが全部振り付けをやってくれた。
他にも毎晩クラブと化すバー、何かと踊るパーティー企画があった。
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タヒチ パペーテ
2011年2月5日、到着したタヒチは火山の島。
ビーチリゾートしても有名だけど、あまりそういう意識もなく訪れると、ひどく神秘的な印象だ。伝統の一部としてのタトゥー。ローカルの人たちは守護動物の幾何学的な模様を彫り入れている。
文化村で文化交流するのツアーの担当になった。ピースボートが各寄港地で組むツアーには、観光目的のものと、交流目的のものと、2種類あり、交流のほうは小規模に行われる。
20人弱程度のパッセンジャーと一緒に2台のジープに乗って山の中に入っていく。2週間ぶりの陸は母なる大地、美しく逞しい神秘の力をなみなみと湛えている。
迎えてくれたタヒチ人のグループの中に、ひときわ体のサイズの大きな女の子たち。その子たちはテレビで日本のドラマを見ているらしく、ジャニーズの大ファン。
若いお客さんたちと固有名詞だけで会話が成り立っていた。あらし〜とか、まつじゅん〜とか。
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ペルー カヤオ
2011年2月17日、カヤオの港を出ると、そこには白タクしかいなかった。ドライバーはクスリでもやっているのか皆目が死んでる。下手に値切ろうものなら痛い目にあわされそうだったので、米ドルでふっかけてくるのには腹が立ったが、交渉し切れず、悔しい思いをした。
初日は研修生という札をつけて、ツアーにくっついて2度目のリマへ。リマ大使館襲撃事件以後、非常に警備が厳重になった日本大使館をバスで通りかかったが、周囲の建物と比べても明らかにやり過ぎ。正に難攻不落レベルで襲う気もなくすほどの警戒っぷりで、美観を完全に損ねていた。
このツアーには天野博物館事務局長の坂根さんが水案として乗船した関係で、天野博物館も行程に組み込まれていた。初めて行ったが坂根さんの一押しであるチャンカイの織物コレクションが素晴らしい。テキスタイル美術館の感覚で楽しめる。土器類も充実していた。WiFiも飛んでいた!(*)
初日の夜から翌日の帰船リミット(**)までは彼と一緒だった。彼はアマゾンでの1年の勤務が終わり、遠距離恋愛でまだ続いていた私たちはざっくり「リマで会おう」と決めていた。アマゾンと言ってもブラジルとコロンビア、ペルーの国境近くにいた彼は、アマゾン川をフェリーでのぼり、イキートスを経由してバスでリマ入りしていた。
またしても次に会うのがいつになるか分からないまま別れた。私は悲しいけどしょうがないと思っていた。これが自分のやりたいことである以上。
*2011年2月現在の話。今はわからない。
**この時までに船に戻らないと置いて行かれるよ、という時刻のこと
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パナマ サンクリストバル
ペルー以降CCたちはみんな下痢になった。私は南米経験者だけあって大丈夫かと思っていたのだが、パナマ到着直前、遅れてなった。
2011年2月23日、パナマ運河に入る。
パナマ運河ではガトゥン閘門というところを通過する。この運河は断面を見ると通過するべき中央が丘のように盛り上がっており、普通の川を行くようにただ航行すればいいというものではない。
これを知らずに着工したのはフランス人チームだったが、この地形の問題とジャングルを開く際にお約束のマラリアに苦しめられギブアップ。そこでアメリカチームが引き継いで完成させ、まんまとアメリカのものにしてしまったのだが。
徐々に高度を上げなくてはならないパナマ運河、どう通過するかというと、段階的に門をいくつか開閉して水位を調整、これをロック式というのだそう。それでも徐々に高度を上げていかないといけないので、重たい船体を最初はロコモーティブが閘門まで引っ張ってくれる。念の入った作業だ。
パナマではこのガトゥン湖を訪れるツアーのCCを担当。ジャングルに入って少し散策もできた。ここの生態系はブラジルのアマゾンと驚くほど似ていた。いる動物もほとんど同じといってよかった。
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コロンビア カルタヘナ
2011年2月25日、パナマ出港が半日押したので、コロンビアへはそれが響いて遅れて到着した。
まだ下痢が続いている。その上アクシデントによりアルコールをツアー中摂取してしまう。私は基本的にお酒がまったくダメなのだ。つきあいで1杯もいつもお断りしている。
それなのに、ツアーリーダーが頑なにジュースだと言い張った食前酒を飲み、通訳どころではなくなった。幸い食事時だったので、大量の水を飲み、パッセンジャーがデザートを食べ終える頃には回復することができた。
ところでこのツアーはカルタヘナの町を散策するというものだったが、昼の到着のおかげで夕方から夜にかけての涼しい中、ライトアップされたきれいな町並みを楽しむことができた。これが朝着いて日中の散策だったら、太陽が強すぎてみんなバテていたことだろう。
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トリニダード・トバゴ ポート・オブ・スペイン
2011年2年28日、ベネズエラから10数qという距離にあるトリニダード・トバゴに入港。市内観光のあとスチールパン工場見学へいくツアーのCCをした。
工場というより工房のようなところで、スチールパンがドラム缶から作られる製造過程を説明してもらう。とてもシンプルながら根気の要る作業だ。特にチューニングには念を入れていた。
その後遅めのランチタイム。工場の裏庭スペースに簡易ブッフェが設置され、ケータリングしたと思われる料理が並ぶ。ここで食べたチキンは絶品だった。こんなにレベルの高いチキンを期待していなかったので、一人で感激。食事中はスチールパンの生演奏まであり、至れり尽くせりだった。
食後の買い物タイムでは、元からここでスチールパンを本気で買うつもりだったパッセンジャーが2人おり、10万円単位の買い物の通訳をした。買う側の本気を見せてもらって、心打たれた。日本で買うともっと高いのだそうだ。輸送コストを考えると無理もない話だった。意外と柔らかく繊細なので、上に物を置いたり落としたりすると、音が変わってしまう。輸送方法もなんでもいいというわけではないのだろう。
しかしこの時期からストレスがたまり始める。何より忙しいし、色々な立場の板挟みになるため、また色々な場面でぐっとこらえることが頻発したせいでもある。治りかけていた皮膚もこのころから掻きはじめて悪化。
ルームメイトのマリアはGETの先生、ボランティアで参加している船上のスペイン語教師だ。CCとGETのスケジュールは基本的に異なる。彼女が先に起きたときには必ず「Do Not Disturb」の札をかけて出て行ってくれた。私が部屋に遅く戻ると、私のベッドサイドの明かりだけつけて、部屋のメインの照明は消してある。何かあればメモ書きを置いておいてくれる。大抵彼女の企画の通訳をしたときのお礼だったりするのだけど、とても心があたたまる気遣いが多かった。
よく深夜までいろんなことについて話をした。世界中を旅している同じ年のスペイン人のマリアは、自分のペースを大事にし、物事を冷静に見ながら対処し、きちんと自分の意見を述べた。要するに自立した人だ。彼女からとても多くのことを学んだ。
船内では色々な催し物があるが、「芸達者祭」なるものがあり、サルサのパフォーマンスをすることになった。と言っても練習期間は3日。チームで時間を合わせて練習するのはほぼ不可能なので、CCイナが神戸でパフォーマンスしたときの振りをデータでもらい、細かいところは直接聞いて、部屋で特訓。男性陣には曲の後半から入ってもらうことにして、サルサの上手なジャパングレイス(*)のKさん、CCC(**)のトウマ、CCメルを動員。こちらはほぼフリースタイルとルエダで乗り切ることに。
3日で1分半分の振りうつしなんて、パフォーマンスチームにいた24歳のときですらやったことがない。けれど集中すれば人間それくらいのことはなんとかなるのだ。踊り込んでいない分出来もいまいちだったけれど、少なくともタイミングは合っていたし、お客さんには喜んでもらえたので良かった。
*ピースボートの船旅を出している旅行会社。ピースボート自体は非営利団体なので、旅行会社としての業務は全てジャパングレイスが行う。
**CCのコーディネーター
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カナリア諸島 ラス・パルマス
カナリア諸島に着く日の朝はマリアと揃って悪夢にうなされた。私の夢では大好きなイグアナたちがぶつ切りにされて死んでいた。マリアは、死んだ友達のお姉さん(この女性は本当に数日前亡くなっていてマリアもその連絡を受けていた)に海に引きずり込まれるという夢。
それが3月8日だった。今思えば予兆だったのだろうか。不吉な夢だ、いやだなあ、と思いつつ1日をスタート。
しかし、到着したグランカナリア島では楽しいことしかなかった。私にとってカナリア諸島と言えば多和田葉子の世界!小説『文字移植』の舞台がカナリア諸島だったのだ。抽象画を見ているような内容だった。素晴らしい文章力で描かれる景色。どんなところなんだろうとずっと思っていたのだ。
パルミートスという鳥公園のあとマスパロマス砂丘やグアヤデーケ渓谷を訪れるツアーのCCを担当したので、大体のハイライトは網羅できた。スペインと言うのは無理がある場所だ。サボテン、砂丘、なんとなくしーんとして空虚な感じ、荒々しいような自然、独特の雰囲気がある。
ここには他にも憲法9条広場があるのだけれど、ここへは私の同伴したツアーは訪れず。残念。
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モロッコ カサブランカ
2011年3年10日モロッコ、カサブランカに到着。ここは一生忘れられない場所になった。
初日は歩行少なめのツアーのCCで首都ラバトへ。ガイドはベルベル人のザーヒル。もうこのキーワードだけで異国感満載だ。
カスバやらメディナやらを訪れ、タジンにクスクスのランチ。白い壁に青いアクセントの狭い小道、甘いミントティーに猫。突然現れた女性が有無を言わさず手の甲にヘナタトゥーをしてくれた。
そのあとカサブランカに戻って買い物タイム。雑多なものが売られているスークではなく、品質の確かなこの店で、と案内された。うっかり私も買いまくったが、ここでの買い物はすごく良かった。
合皮のバブーシュ(本革は本気で臭いので合皮がお勧め)、バラ水(目を洗うためのもの)、アルガンオイルのクリーム、ハムサのペンダントトップ、アラジンパンツなどを購入。
夕方にはツアーは終了して帰船できたので、CCみちこと歩いて再び町へ繰り出す。まずはスークへ。カサブランカは臭いけど楽しい。モロッコ人は人懐っこい。そして親切。とにかく一言で言えば、おごられまくった。
現地通貨を持っていなかったので、ローカルのお客さんしかいないクレープ屋のようなところで、隣に座っていたおじいちゃんが数ディルハム出してくれた。
そのあとスーク内で迷い、お兄さんに道を聞くと、危ないからと外まで一緒に歩いてくれた。ナイトクラブと看板の出ている店に入ると、とにかく誰も踊っておらず、丸テーブルにビール空き瓶を乱立させている。ここってムスリムの国じゃなかったっけ?
引き続きディルハムを持っていない私たち、ユーロで支払えないか?とカウンターで聞いていたら、そこで飲んでいた背の高いイケメンのお兄ちゃんがおごってくれた。フランス語と英語をまぜて3人で会話し、その間全部彼のおごり。最後は港まで送ってくれた。
ゲートをくぐると今度はみちこがトイレに行きたいと言う。船まで待てないの?待てない。その上船がどこにあるのか思い出せない。広い港で迷子になった。
24時近いし、真っ暗で誰もいない。うろうろしていると前方に明かりと人影が。とりあえずトイレを借してほしいと言いに行った。どうやらそこは倉庫の事務所で、おじさんは夜勤でたまたまそこにいたらしかった。みちこがトイレに入っている間にバケツ1杯のお湯を持ってきてくれた。多分ビデみたいな使い方をするのだろうけど、ありがたくいただいて手だけ洗った。
事務所の中をのぞくと、仮眠用のベッドが何台かあり、ほかにも男の人たちがいて、笑顔であいさつしてくれた。船に戻りたいが場所を忘れたとフランス語で伝えると、車を出してくれるという。ありがたく乗せていってもらった。なんて優しいんだろう。すっかりモロッコ人が好きになった。
翌日、2011年3月11日、意気揚々と他のCCたちと数人で町へ出かけた。地元の人でにぎわっているスタンドの朝ごはんに交じってみてから、10時頃ネットカフェへ。そこで日本が大変なことになっているらしい、大きな地震があったらしいと初めて知った。
Yahoo!Japanのトップページに地震速報が出ていた。何回かチェックするたびに情報は変わる。ということは何度も今起きているということだろうか。断片的な記事では全体像が全く分からない。
会社に取り残された人もいるみたいだし死者も出てるし、津波の警報もある。大丈夫かな。なんか大変みたいだよ日本、とほかのCCに声をかける。
とりあえずそれ以上の詳しい情報は拾えそうになかったので、予定通りスークに行って値切り倒して買い物を楽しみ、ケバブ的なランチを食べる。ミントティーも甘さ絶妙で美味しい。
帰船前に再度ネットカフェに行き、家族の無事を確認する。なんとなく勘が働いてTwitterのダイレクトメッセージを使ったのが良かった。
船に戻ると、船内放送では「東北地方で大きな地震がありました。詳しい情報は追ってお知らせします。」というようなことを繰り返し言っていた。
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スペイン マラガ
2011年3年12日、マラガに着いた。
ミハスとマラガを散策するツアーのCCを担当。パエリアを食べ、ピカソゆかりの場所を訪れる。コスタ・デル・ソルに小学校2年・3年の夏休みにオランダから来ていた。マラガは実は3回目だったのだ。全く覚えていないけれど。
ツアーが終わったらフリータイム。他のCCやパッセンジャーとマラガへ再度繰り出す。素敵な街並みだった。特に小道が素敵。みんなで食事をして、夜のマラガを散策。とても平和できれいな町という印象。さすがはヨーロッパ、コーヒーがすごく美味しくて大満足だった。
CC、GET、ピースボートスタッフが集まり寄港地で買った食材を持ち寄り、色々食べつつ話す。ちょっと広めの部屋があるとみんなで集まってよく時間を過ごした。だらだらと、いい息抜きになった。
部屋に戻るとマリアがスペインで買った新聞を見せてくれた。一面で日本の悲惨な状況を取り上げていた。そこで状況をやっと少し把握する。
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イタリア ナポリ / ローマ / バチカン
翌日船は地中海を1日かけてクルーズし、3月15日の朝、ナポリに着いた。到着するなりCCベルと駅まで歩いて電車に乗り、ローマへ。駅の中をうろうろしていたら、コーヒーショップの店内のテレビ画面に目が釘付けになった。津波が町を丸ごと飲み込んでいく映像だった。画面には日本語のテロップがかかっている。びっくりして足が止まった。こんなことが日本で本当に起きたのだろうか?
ローマに着いたらまずはバチカン市国へメトロに乗って行った。しかし気もそぞろだった。とにかく情報をと思いThe Guardianを買ってネットカフェへ。そこでやっと日本の状況を把握できた。The Guardianを読んで初めて震災そのものだけでなく原発が危機的状況であることを知ったのだが、日本語のニュースサイトの記事と英語で読む海外メディアでは、明らかに温度差があった。そこがすごく引っかかった。
気持ちは全く穏やかではないが、ともかく予定していた通り、南米でブラジル以降一緒だったバルと久々の再会を果たす。彼女はローマからバスで3時間くらいの町に住んでいるのだが、以前ローマに住んでいたことがある。素敵なプチホテルを予約しておいてくれ、はじめは同じ部屋に泊まるつもりだったものの、私が疲れているのを見ると彼女は私に1部屋くれ、自分はもう1部屋とって、充分休めるようにしてくれた。ベルも別の部屋に泊まった。なんとバルは宿泊代を既に払ってくれており、私のお金を受け取らない。
そして夜のローマを案内してくれた。古代、中世、ルネッサンスの遺跡が町中にある。夕飯はアーティチョークの色々。おいしい。ここもバルのおごりで。その夜は久々の一人部屋で、爆睡。
翌朝8時に朝食が部屋に運ばれ、支度しつつのんびり食べる。ネットで日本の情報をチェックすると、放射能が漏れる可能性大だと言う。ひどい。
この日は3人でバスに乗って雨のローマ観光。素敵なものに出会う、いい思いをする度に心が痛んだ。日本では大勢の死者・行方不明者が出たばかりでなく、被曝の危険にさらされている人が大勢いるのにと。途中、反原発デモがあったけれど、訴えている側の熱心さに比べて、足を止める人は少ない。メディアは数社来ていたが・・・。効果はあるのだろうか?とこのときは思った。
バルにはすっかり世話になり、相変わらず旅人の彼女が最近行ったラオスでの写真を見せてもらう。最近はもっぱらツアーリーダーかライターとして収入を得ているのだそうだ。
ナポリの港ではWi-Fiが入ったので、一旦帰船してパスポートを戻してから(*)ラップトップを携えて再度下船。港でメールしたり色々確認する。数時間おきに日本では事態が進行しているようだったし、船の中でネットを使うと100分あたり4000円かかるということもあった。衛星を使うから通信は高いのだ。
3月17日、この日まで特に船内では日本で起きていることに関してさしたる説明会もなかった。パッセンジャーの間にも緊張感が感じられず、私はそのことにかなり不満と疑問を持っていた。
夜、地震と原発について語る企画がやっと開催され、その同時通訳の担当に立候補した私は、色々な企画の合間、ずっと日本の原発について勉強していた。それまでで一番難しく間違いが許されない内容だった。
パッセンジャーの、今知りました、というような反応には心底驚いた。海外にいてインターネット環境にないとこうなるのかと。また殆どが高齢者だったので、インターネットがあっても難しかったかもしれない。それにしても日本のNGOと日本の旅行会社の運営する船旅なのだから、もう少し情報の共有があってもいいと思うのだが。この話を人にすると、お客さんにも知る権利があると誰もが言う。私も他のCCたちもそう思っていた。
運営スタッフにも思うところはあったのかもしれない。その850人の日本人を乗せた狭い共同体の中でパニックだけは避けたかったのかもしれない。けれどそれこそ日本政府の対応と同じロジックではないか。日本のピースボートはすぐに救援活動を開始したようだが、こちらの事情は違った。
CCまなみとキヨのカップルがネットカフェでダウンロードしてきた津波の映像を見せてくれた。仙台出身のCCちひろが泣きだす。向かいのソファにいたパッセンジャーの若い女の子も、iPhone握りしめて泣いていた。辛い。
*パスポートは最初の乗船時レセプションに預けて、航海中は全員分のイミグレをまとめてしてもらう決まり。外泊時には携帯が必要になるため、予め申請して下船前に取りに行き、帰船したらまたレセプションに返却する。
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トルコ クシャダス
2011年3月21日6時半到着。以前イズミールに住んでいたことのあるCCまなみの案内で、CC5人でイズミールへ。
バスを乗り換え、片道2時間以上かかったので、イズミールにいたのは3時間程度だった。乾燥して暑い。主に市場を見てまわったが、食べるものはなんでもおいしく、市場で見る品々はどれもエキゾチックで、かなり楽しめた。
クシャダス周辺と違って観光客にすれていないようで、接客にも心がこもっているし、押しつけがましさがない。帰船リミットに間に会うように大慌てで帰った。
一旦CCのみんなとくつろぎの時間を過ごした後、着替えて、この日も中東会議、ディナーと通訳を務める。
その席では面白いプロジェクトの話がどんどん出てくるのに私はただの通訳で全然参加できないのが悲しかった。通訳はあくまで通訳でしかない。色々私なりに意見などが出てくるのに。そこがフラストレーションだった。
翌日は、パッセンジャー向けに中東問題を解説する企画で逐次通訳を担当。(*)その時私がメインで訳したエジプト人の活動家の女性は、早口だし内容も内容だし、止まらないので、とても訳が難しかった。その後は疲れ過ぎて口もきけなくなり、20時前にもうベッドに入ってしまった。
*基本的にツアーでの通訳は一人で、船内企画での通訳は3人1組で行う。この時も3人だったがスピーカーも3人いたため、1人ずつ人担当を決めて行った。
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エジプト ポートサイド
2011年3年23日、革命1ヶ月後のエジプトに到着。事情が事情なので単独行動の許可が国から降りず、全員がツアーの形でないと入国できないことになっていた。
私たちCCとGETもこのときだけはお金を払ってツアーに参加した。カイロまで約3時間のドライブ中、外の様子をじっくりうかがった。モスクが至る所にあってきれいだけど、戦車も見るし、軍人は至る所にいる。ライフル銃片手に居眠りしているようなのもいたが。
まずはギザのピラミッド、そしてスフィンクスへ。噂には聞いていたがモノ売りがうるさくてちっとも集中できないが、革命で観光客の足が遠のいているため、久しぶりの獲物に対してアグレッシブさが増していたのかもしれない。
以前エジプトに来たことがある誰かが言っていたが、イギリスの影響がより色濃かったときはもっと女性の格好もゆるかったらしい。今は黒くおおっている。それでも一目で、若いのかお年寄りなのか、セクシーなのか美しいのか、またそうでないのかが直感的に分かるのはなぜだろう。
時間があったのでみんなでそこらへんをぶらぶら歩いたのだが、ボリビア並の汚さだった。でも人々は生き生きしているように見えた。
その後はムバラク政権を倒した革命家との"交流"のはずが、他のツアーのパッセンジャーもあわせて総勢50人。それに対して活動家は思った程呼べず、2名。記者会見のようになってしまった。
食事の際隣の席に座れたため、エジプトのイスラエルに対する外交的な姿勢に矛盾を感じる点があるのでそれについて尋ねた。曰くパレスチナを助けつつイスラエルと平和協定をいち早く結ぶやり方の中には、ハマスを憎んでパレスチナを憎まずという考え方及び、対イスラエル&アメリカのムバラクのやり方があったということらしい。
翌日、船はスエズ運河に入った。
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サウジ・アラビア ジェッダ
2011年3年26日、サウジ着。まさか人生でサウジを訪れることがあるなんて。
皮膚の状態が悪化してきている。その上下船するに当たり、女性は髪一本出してはいけない、体のラインを露出する格好はいけないと制限だらけで着る服もない。すごく嫌な気持ちになりつつワードローブをひっくり返す。
サウジアラビアには基本、日本人に対して観光ビザを発給しない。こんなに大勢の日本人が上陸できた裏にはピースボート側の有力者とのコネがあったらしい。ともかく大勢の人数をさばくのに慣れていないイミグレでは、入国審査で2時間近くかかってしまい、ツアーに大幅な遅れが出てしまった。
ジェッダを観光バスで走ると、アメリカ資本がすごく入っているのに驚いた。マクドナルド、KFC、ドミノピザの看板が至る所にある。女性はほとんどいない。いても全身黒づくめで、若くはない。町の市場とショッピングモールを見学した。ショッピングモールのフードコートでは、家族連れが集うエリアと、女性だけのグループが集うエリアは別だった。女性だけで来た場合、背の高い観葉植物できっちり遮断された隅っこのエリアで飲食しなければならない。そんなに男性が危険なのだろうかこの国は?と逆に訝しんでしまう。
その後大地主の邸宅へ向かったのだが、この地主さんは一体何者なのだろうか。遂に分からなかった。100名近いパッセンジャーが収容できるダイニングルームでまず昼食がふるまわれ、それ以上に広いリビングで歓迎の演奏が始まる。イエメンあたりから出稼ぎに来ている従業員たちがウェイターからミュージシャンやダンサーに早変わりしていた。
午後遅くなってから、裏庭の広大な敷地にラクダを呼んでのお茶会となった。サウジアラビア独特の色の薄いコーヒーや、スパイシーな紅茶がふるまわれた。コーヒーは焙煎しないで淹れるので薄い色になるのだそう。最後は国旗を振って見送ってくれた。素晴らしい歓迎っぷりだった。
そして夜の紅海から光るモスクを見て、みんなツアーガイドと握手で別れた。
ツアー名は砂漠の民ベドウィン族の生活を知るとかなんとか、そういうものだったはずだが、いつかの写真で見た黒づくめでラクダに乗った砂漠の男というイメージからはかけ離れた体験だった。しかしこれはこれですごく楽しめた。
とてもいいツアーだったのだが、船に帰ると気持ちが悪い。酔ったかな、という感じだったので夕飯はとらなかった。いつものように部屋に戻ってツアー報告書を書き、マリアと話して寝た。
その夜、うなされる。寒くて震えるので、上着をクロゼットから出して着た。寝ながらも苦しい。
そんな調子で一晩過ごし、朝、体が起き上がれないことに気付く。マリアに体調不良だと思うと言った。トイレに行く以外は一度もベッドから出なかった。電話に出たり、おかゆを電話で頼むのもやっと。とにかく体が重くて思うように動かない。関節が痛い。寝汗もすごい。
CCたちが差しいれ持ってきてくれたのでじ〜んとした。
1日寝たら痛くてどうにもならなかった関節はかなりましになった。熱はなさそうだったのに高熱時と同じ症状が出た。体中の力が失われて、歯を磨いただけでも倒れそうなほど疲れる。寒いので毛布を貰った。
2日目、やっとシャワーが浴びられるほど回復。でもまだ力が入らない。その上今度はお腹の調子がいまいち。せっかくのソマリア沖なのに。
ソマリア沖では海賊に狙われる可能性があるため訓練までしていた。ブラボータンゴという放送が流れたら訓練通りのことをするようにということだった。このBravoというのは軍隊でBを意味し、TangoはTを意味するらしい。またBravoは海軍において船に砲弾が向けられていることを意味するらしいが、Tangoは何だろうか?ともかく二つが並ぶと華麗なタンゴショーが繰り広げられるイメージしかなく、タンゴの音楽でも流すのだろうかと思ったほどだ。
結局日本郵船などと船隊を組んで自衛隊に守られながらの航行となった。これも憲法9条遵守を訴えたり自衛隊にも一家言ある団体として矛盾はないものだろうかと思ったけれど、そういう主義主張に関係のない一般のお客さんを乗せていることだし、安全第一なので、仕方のないことなのだろう。ともかくこのエリアは無事通過できた。
体調が戻ったら引き続き日本の状況をネットでチェック。被曝の危険性が充分に伝えられていないと感じた。旅の冒頭で広島・長崎の被爆者の方々だけでなくウラン鉱山や核実験の現場の被曝についても証言を聞いた身としては、日本の報道のトーンがぬるすぎた。これでは危機感を持たない人も出るだろう。
マリアとそのあたりのことを話し合った。ちゃんと話せる人がいてよかった。その頃、日本はやっとプルトニウム漏れを認めた。
東京にいる家族に日本に戻ってこない方がいいと言われて、マニラで離脱する計画を進め始める。
たまたま船内で『Earth』を上映していたのを見て、初心にかえった。私は地球というひとつの存在を理解したい。また、周りに迎合しないマリア、ジョーの自分らしさに学びたい。
ジョーもGETの先生で、彼女は英語担当だった。彼女も同じ年で、とてもバランス感覚のいい人だ。何でも大きいことがいいアメリカ出身なのに、環境を汚染しないよう小さい家に暮らしたいという。コスメはハンドメイドで、自然体で、CDデビューしたこともある甘い声のシンガーでもある。私のエコライフの先生的存在。
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インド コーチ
2011年4年3日、ケーララ州のコーチに到着。
初インド。インドと言えば何かにつけ笑えるネタ満載というイメージだったが、まずは普通にツアースタート。暑くて湿気がある。基本的にリラックスし楽しく仕事できた。
ATMに行く暇もなかったので、現地通貨はおろかユーロも円も持っておらず、買い物できず。実はエスニックなテキスタイル、特にインドのものに弱い私は、お金があればどんどん買っていただろう。クレジットカードを持たず、シティバンクのキャッシュカードだけ持って行ったので、ATMがなければ無一文状態だった。
幸いATMは近くにはなかった。あったらめちゃくちゃ買っていただろう。
でも安く売られているいいものを見て、値段の残酷さ、不当さを感じた。物そのものの価値は不変なのに、それが現地の物価とはいえ、とんでもない安さになっていて、その価値そのものまで下げられているような気がして、悲しかった。自分が買う側に立っていたら気づかなかったと思うが、買うことを最初から放棄して中立の立場で商品とその価格を見たときに、なぜかそう思ってしまったのだ。
市内観光のあとは文化村でカタカリダンスを鑑賞し、おいしいカレーを食べ、エコな昔の暮らしを見てボートで帰った。ツアーなのにせわしなさのない、のんびりとしたひと時を過ごすことができた。
船に戻ると交流ツアーに行ったCC大ちゃんが交流の記念に受け入れ団体からもらったというカードを見せてくれた。それを読んで私は30分くらいはらわたがよじれるほど笑った。自治体の偉い人からの公式なメッセージなのに、Google翻訳をそのままコピペしてあり、殆ど意味をなさない。
それでも堂々と「ハーティは、ピースボートの私達の日本の友へようこそ!」で始まる難解な文章は時に魅力的ですらある。震災に関しても気遣いをみせ、「ライジングサンの国の悲しみ。心からお悔やみ・・・」とライムしている。インドのパワーを感じるカードだった。
これは交流ツアー参加者しか持っていない貴重なカードなのだが、私が欲しいと駄々をこねたらCC大ちゃん・ソフィア夫妻が寛大にもお別れの日に裏にメッセージを書いて私にくれた。宝物だ。
翌日、遂にマニラからアムステルダム行きの片道航空券を買う。
翌々日の4月5日、キミのGLBTQ、ゲイライツの企画の逐次通訳をCCすみと担当。この企画は同性愛者であるウェブ・レポーターのキミがカミングアウトするために行ったものだった。アメリカ人の彼女は、日本人だらけの船の上の、同性愛に対して全く受け皿のない共同体の中で、居心地の悪い思いをしてきたのだろう。旅が終わる前にちゃんと言いたいと言った。この時の訳はその気持ちをちゃんと届けようと思ってやった。
また、キミだけでなくGETの先生のマーティンも、その企画でカミングアウトした。同性愛者であるということだけで色々な不都合や不当な扱いにあったりもする。理解されにくいこともある。だから彼らはあえてそこで発言した。聞いた人が少しでも理解を深め、今後他の同性愛者に接するときその理解が生きるように。
私はここでも勇気を持って言うことの大切さを教えて貰った。それまではマリアがよく忌憚なき意見をスタッフにぶつけていたので、見習いたいとは思っていたのだが、いつもそれを押しとどめる自分がいた。
でもこれは全ての社会問題に共通する基本的な打開策だ。言わない⇒知られない⇒問題が大きくなる、という図式を、現場にいる人間が発言することで変えていける。知らなくていいことは何もない。
その夜のCCとGETが参加するワークショップで、私は横浜に帰る前に船を降りることを言った。他に4人そういう人たちがいた。みんなお別れだ、いずれにしても、航海も終わりに近づいている。仕事は精一杯やりきったし、後悔はなかった。
パッキングをして、夕日を見にデッキに行ったらすごく近くにイルカときれいな夕日が見れて大興奮した。インド洋では特に波がないため、船の立てる波でイルカが遊ぶ。それで近くに見れるらしい。それまではずっと忙しく、海をのんびり眺めてイルカを探すなんてことはできなかったので、最後に見れてうれしかった。
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シンガポール
2011年4年8日の昼にシンガポールに着いた。日本ではM7.4の余震がきたらしい。原発が心配だ。
荷物を一部家に郵送し、CCベルとアラブストリートへ行って、ネットカフェで日本にいる家族とSkypeで話した。
こっちとあっちではやはり全然違う。情報も違えば、見えている現実も。言いたいことは伝わらなかった。
まだネットカフェで用事のあるベルと別れ、他のメンバーと待ち合わせの為City Hallに行くが会えず、ふらりと入ったショッピングセンターで死海の泥を見つける。皮膚疾患に効きそうだったが予算オーバー。すると彼女たちは自らの社販扱いで売ってくれた。聞いたらフィリピン人だった。日本のことを心から心配してくれた。たくさんのフィリピン人が日本で働いているからと。
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マレーシア コタキナバル
2011年4年11日、マレーシアに着いた。お腹下しつつツアーへ。
ボルネオの動物たちに会えるロカウィ野生生物公園(Lok Kawi Wilflife Park)を訪問する。ここには保護されたボルネオゾウたちもいる。水案として乗船した、旭山動物園の園長でありまたボルネオ保全トラストジャパンの理事でもある坂東さんの案内だった。
なぜ保護が必要になるかというと、我々が使うパーム油を生産するため、大規模なアブラヤシのプランテーションができ、それがボルネオの野生動物のすみかを奪っている。そのため動物たち、特に同じルートを行き来するゾウが逆に畑を荒らす格好となり、トラブルが起きているのだという。ボルネオ保全トラストジャパンはこの問題に関して様々な試みを継続して行っている。
またなぜ日本人の我々がこの問題に目を向けるべきかと言うと、日本人一人当たり10m²のプランテーションの世話になっている計算になるからだ。(*)
我々が何気なく買うコンビニのおやつやカップラーメンに「植物性油脂」または「パーム油」と書かれていることの裏に、ボルネオの熱帯雨林の犠牲があったなんて、考えもしなかった。
人間の生活が便利になればなるほど他の生き物はどんどん絶滅に追いやられ、共存からは程遠い。
ツアー終了から帰船リミットまでまだ数時間あったが、遊ぶ気になれず、部屋で最後のパッキングをするが。荷物が多くて参った。
*詳しい情報はこちらから。
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フィリピン マニラ
2011年4年13日、最後の朝、夢にはCCとGETのみんなが出て来た。
大好きなみんながいて、毎日会えるというのは幸せなことだったんだと痛感する。泣きながらお別れをして、CCベルと一緒に船を出たおかげで、一人で泣きながらギャングウェイを降りずに済んだ。
マリアと離れるのが特に辛くて、行かないで、と子供みたいに思った。私はこんなにめそめそした人なんだなあ。大きなオセアニック号を振り返っただけで涙が出てきた。3か月近く、ここが私の生活の場だった。
マニラの港は暑い。久々のバックパックを担いで、キャリーバッグひいて、手荷物2個持って。乗船するときは全部宅急便で自宅から船まで送れたので楽だった。
ベルとタクシーに乗る。白タクなんだけどドライバーのTシャツの背中には「Holland」と私の行き先が書いてあって笑った。ぼられて20ドルで空港に着き、一旦荷物を預けてショッピングモールに行きランチ。
ベルとはそこで別れて、私はタクシーで空港へ。ドライバーは日本に7年不法滞在していた人で日本語が非常にうまかった。
空港でネットをつなぐと、M7.1の余震が日本では来て、そのため原発が更にやばくなり、そのため日本にいた家族がパリ行きを決めたことを知る。危険レベルがチェルノブイリと同じになってしまったのだ。
オランダにいる父は、殆ど使っていないパリ郊外のアパートでの滞在を提案している。日本の家族とパリで再会できそうだ。
飛行機はまずマレーシア、クアラルンプールへ。
ピースボートのキャビンでレゲトンを聞きながら、南米が過去になってしまったことを感じて悲しく思ったけれど、そうやって残していくことが生きること。地球を一周して思うのは、果てしない自然の景色を見ることの幸せ。
昨日海を5分だけ見てお別れした。色々なことが上手く行くようにお願いもした。この地球は丸く有限で、人の力よりずっと強く、偉大。
クアラルンプールからKLMに乗り換え、約12時間でオランダへ飛んだ。
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