Harmonize Nature

2012

2012年12月15日(土)

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再放送があってからすぐ、バルが札幌にやってきて、2日日間一緒に過ごした。南米で別れて、ローマで慌ただしく再会して、今回やっと色々と話ができた気がした。
旅に仕事に飛び回る彼女の家はどうしているのかと聞いたところ、イタリアの故郷の近くにアパートを借りていて、そこがビルの最上階だから、屋根にソーラーパネルをとりつけて、電力を売ってその収益で家賃は殆ど賄えているのだそう。
私はと言えばここ札幌に長いことお世話になってしまったけれど、その間はかなり自分に集中して色々考え、また引きこもって翻訳の仕事したり、それなりに充実した時間を過ごしたと思う。
気が付けばもう師走。そしてありがたいことに翻訳の仕事が忙しくサイトも最近放置気味・・・。でも今のうちに美味しいものをしっかり食べておかなければ。というのも来年から2か月ツバルに行くチャンスに恵まれたので。その後のことは相変わらず未定だけど、コンセプトは固まっているのでおいおい固めていく予定。
そういえば選挙が明日に迫っているのだけど、なんと私、投票できません。住民票抜いていたので・・・。参加できず。でも日本に(というか世の中に)最早何も期待していないので、どうなってもそれが国民の総意なんだろうな〜と思うのみ、のつもり。
(写真は母の知人の方が撮ってくれました)

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2012年9月29日(土)

latina

メルマガとTwitterでは告知済みだが、9月20日発売の『月刊ラティーナ』10月号に、私が弓場農場について書いた記事が掲載された。

食品についてこれまで疑問に思っていたことを今どんどん調べて解き明かしている最中だけど、弓場農場のようなところはこれからますます貴重になっていくと思う。
色々知るごとに、また食べ物を信じられない観点で論じる専門家や権力者がいることを知るたびに、ますます自分の身は自分で守らないといけないなと思うようになった。食べ物の定義はどこかですり替えられたとしか思えない。食べ物と信じて口にしているものの正体を考えると、コンビニやスーパーで買える商品はほぼない。
映画『マトリックス』で、食事のときは美味しいものを食べていると脳に錯覚を起こさせているだけというくだりがあったように記憶しているが、もはやそれに近いことがまかり通っているのではないか。そういう考えが浮かんでくるような本ばかり読んでいる、最近。
毒みたいなものを食べたい人は食べてればいいけど、私はいやだ。自然なものを口にして、シンプルに生きたいだけなんだけど、それが難しいなんて、残念な世の中。

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2012年9月6日(木)

sapporo sapporo

結局札幌でひと夏越してしまった!札幌には中央図書館というなかなかいい図書館があり、英語の本もあるし、読みたかった本がまとめて読めたので満足満足。
札幌の夏は初めてだったのだけど、毎週のように祭やイベントがあることと、一度もセミを見ずに過ごしたことが驚きだった。(写真はある日のフラ)東京では今の時期マンションの入口にひっくりかえって不規則に動いては私をびびらせていたのに。テレビの中継とかでしゃべっている人の後ろでみーんみーんとかじーーーーとかいうのが聞こえると、ああそんな生き物もいたなあと思ったり。
カラスは妙に多いけどゴキブリはいないし、蚊にも一度も刺されずに夏を終えることができそうで本当にありがたい限り。
久しぶりに母と水入らずというのも楽しい。母は私と妹をまったくレールに乗せないで育ててくれた、強い心を持つ素晴らしい女性。こんなに一緒にいるのは初めてのことなので、この時間を大事にしようと思う。

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2012年9月3日(月)

放射能関連の情報をマメに見ていると、安心して食べられるものはないし、安心して住めるところも関東・東北にはない。今いる北海道だってヒヤヒヤする。国が本当のことを言っているとははなから思わない。戦後の被爆者の通ってきた道を見れば、大体予想はつく。自分の身は自分で守らないと。大きな権力が何とかしてくれるだろうと思ったら大間違い。国民なんて、背番号のついた1納税者にすぎない。
でも、まわりの人を見ていると、そう考えていないのだということが良く分かる。
仕事があるからとか、家族の面倒を見なければとか、色々理由つけて動かないところを見ると、この現実を受け入れない方を選択したのかなと思う。放射能なんて大したことないよ、という方を選び取った、その結果都内を走ったり子供を外で遊ばせたりしているのだろう。
今の生活を捨てることのとてつもないリスクを考えたら、現実を無視した方が楽なことは容易に想像できる。もともと動くの大好きで常に移動する口実を探している私のようなタイプは日本ではマイノリティだということも承知している。そんな私にとってさえも生活の基盤を捨てたり変えたりするのは本当に勇気のいることなのだ。
でもすごい違和感だ、食品や土壌の信じられない数値と、それでも頑固に続く人々の日常のギャップ。正直言ってフェイスブックで見る友人知人の日常にもついていけない。別の世界に住んでいるのだ。考えや気持ちを共有できる気がしない。どんなつもりで生活しているのか、それを話し合える共通の言語をもうお互いに持っていないのではないかと思える。怖くて試すこともできない。
原発事故以来、自分にとって話が通じる人と通じない人がはっきり分かれた。痛快なくらい、ダメなときは、どんなに言葉を尽くしても、ダメなのだ。同じ世界には生きていないのだ。そういう人ともう無理して関わることもない。自分を取り繕って、波風立てないように、気を使う必要もない。もう好きに生きていくしかない。無理して話を合わせれば何とかつきあうことができた種類の人たちへの未練ももうない。かえって楽になった。

ところで高校生時代の友達のお父さんは、リビアで3番目くらいの地位に居た人だった。彼女はフェイスブックで革命の間、ほとんど沈黙を通していたけれど、自分の国が崩壊しないように祈っていると言っていた。フェイスブックに他の人たちが載せる平和な写真やコメントを見て、同じタイムラインにありながら、完全に違う世界にいることをどう感じていただろうか。

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2012年9月2日(日)

札幌の町を歩いていて視界に飛び込んでくる人々に対して、何ら親近感もつながりも感じられない。とことん関係のない人たち、全く接点を見い出せないであろう人たち。
この感覚は東京でもある。一応見えてはいるが異次元の世界を生きているような。あちらからも私は見えていないのではないか。それを最近不思議な思いで感じている。
他の都市ではどうだろうか。常にそれだけを意識しているわけではないのでよく思い出せないが、いつも自分はここから去る立場なのだという前提があって、そのためにさほどつながりを求めたことはない。
それでも歩いている人、すれ違う人、言葉を交わす人の生活を垣間見ていた気がする。もう少し共通する感覚や、接点を、見いだせたと思う。

私はたまたま縁あって日本に生まれて日本国籍を持っているというだけ、日本語と日本の常識を理解する、日本文化が好きなだけの人であり、生まれたのは名古屋だけれども名古屋のことは殆ど知らないし、東京には18歳から32歳まで住民票を置いていたけど、だからって故郷とは言えない。
親戚は三重と広島にいるけど、しょっちゅう行くわけでもなく。日本という漠然とした概念を自分の国だと思っているけど、日本人とだけすごく分かりあえることもないし、日本食がないと生きていけないわけではないし、やっぱりここが骨を埋める場所じゃないんだなと、ただしみじみ感じる。

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2012年8月28日(火)

2016: Obama's Americaという映画がアメリカで公開になり話題になっているらしい。日本でもやらないかしら。
もとの本を書いた著者はばりばりの保守派らしいので、まあプロパガンダ的な匂いはするけど、ちょっと見てみたい。オバマ大批判の内容なので、日本はきっと大人の事情があり過ぎて、上映できないかもなーー。そうでなくても現職の大統領批判はまずいんじゃないの?ってことで。
でも日本の映画館及び映画配給会社ってすごいマイナーな作品にもチャレンジするし、結構骨があるようなので、もしかしたら見れちゃうかな。圧力さえかからなければ。
著者のインタビュー読む限り、オバマに任せておくとアメリカの影響力が小さくなるんですよ!とか、なんだか諸外国にとっては大歓迎のことを言っているので、このオッサンなに言ってるんだろうという感じもある。
「The Cove」を見た外国人が日本人にイルカやクジラをとるのをやめろ!と偽善者そのもので責めてきたみたいなのと似たような影響力があることは間違いない。だってプロデューサーはハリウッドのお涙ちょうだい系の映画手がけた人だし、きっとそのへんは上手いのだろう。
選挙に間に合わせるようにうまく完成させたな〜というのと、アメリカって仁義なき戦いだなと思う。もっと平和にやろうぜ。

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2012年7月28日(金)

最近ノンフィクション本を英語で立て続けに読んでいるのだけど、とても気になるのが日本に関する記述。どうもちゃんと調べて書いている気がしない。中国のことはよく分かっているのに。著者はどっちもアメリカ人だ。
そりゃアメリカ人は1億2千万人いる日本人より13億人以上いる中国人のほうが絡んだ経験はあるだろう。確率的にも。政治的にも今や日本は大事なパートナーではなくなってきているのかもしれない。経済的にも。少なくとも一般人の意識の中では。

また、日本はあまり外国で理解されていないと感じることが多い。それは自己主張も説明もしない日本人が多いことが災いしているのだろうか。国もブランドだから、外国人と接する日本人の一人一人が伝統文化を伝えるなり、良さを説明するなりしていかないと、どんどん存在感がなくなっていくように思う。 いくらクールジャパンとか言ってても、全然足りない。国名だけ知ってて、テレビで色々見聞きしていているだけの場合と比べると、その国の人とちゃんと喋ってみたときの理解度、インパクトはくらべものにならないくらい大きい。
私はセルビア人の友達ができたときにそれを感じた。彼女の国の経験してきたことを生の声で聞くのは、テレビや雑誌で知るのと全然違う。そういうこともあって、日本人は自分の言葉で外国人に自分の国のことを言えないといけないよな〜と強く思う。

でも英語苦手で、という人が多いのも知っている。
なので、非常におこがましい話ではあるが、次週からメルマガ『Nature Rules』に一言英会話のような場を設けることにした。大事な読者の皆様に少しでも役立つものをと思って。
旅先で友達を作る、意思表示をするなどの場面で役に立つ会話術。もちろん、『歩き方』の巻末とかぶらないテーマを選ぶ予定。

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2012年7月22日(日)

demo demo

藻岩山に登った。最近運動不足な上に札幌のおいしいものを毎日食べていたせいなのか、もともとのスタミナ不足がたたったのか、なんだか分からないけれど意外と大変だった。汗をかきかき登山大好き〜な感じの人々に追い越されながら、1時間半くらいかかってしまった。

登りは一緒に登った母の方が元気なくらいだった。帰りは私の方が元気だったけれど。登りは一向にうまくならないが、下りはましになったかな。でも登山は私のキャラじゃないみたい。平坦なところを長距離歩く方が好き。

それでもどっしりと存在感のある原生林の中を歩くのは楽しかった。きれいな毛虫や慎ましやかに咲く花々。買ったばかりのトレッキングシューズで安心だったし。ロープウェイで登るより100倍いいとは私でも思う。
翌日筋肉痛になった箇所は日頃鍛えたいと思っていた箇所だったので、やっぱり登山はいいトレーニングになるんだなあと実感。

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2012年7月16日(月)

demo

再稼働反対デモに行ってきた。札幌で。
いくら泊原発があるとはいえ、まだまだ放射能への危機意識の薄い札幌。 調べると意外と汚染食材も出ている北海道。その上苫小牧では王子製紙の工場が福島の廃プラでつくった燃料を1年近く燃やしていたという・・・。
日本全体で危機感を持たないとなし崩し的にヒバクさせられそうな感じなので、避難先確保の意味でも北海道は死守しなければと思うんだけど道行く人はそんなに関心なさそう。
デモ参加者は熱心だった。この温度差・・・。毎回不思議な気持ちになる。進んでヒバクしたい人は止めないけど、みんな平気そうだから平気だろうとか受け身を貫いている人は後で後悔するぞ〜と思う。知りませんでしたで済むわけ?一つしかない自分の体を危険にさらして。

必死の大人を普段見ないのかドン引きしていた女子高生たち。彼女たちも今に分かるだろう。
ネットでがちゃがちゃ言ってても動かないことだらけなんだ世の中は。だから時には少々面倒でも表に出て声を張り上げないといけないんだ。それでも動く保証はない。だから通りに出て声を上げるなんて、生ぬるいくらいだ。 出来る限りのことをやって生活を守っていかないと、嫌だと思う状況にどんどんなっていく。

ところがデモも署名も無視の東京都知事、野田政権。だから今回参加してもな〜という思いは正直あった。報われるんかいなと。 でも何もしなければ黙認、受け入れたことになる。

脱原発に冷ややかな目を向ける人が意外と多いことに驚かされるが、その主張としては代替エネルギーがないとか経済を犠牲にするわけにはいかないとか、そういうのが多い。
でもね、生活水準の維持よりも差し迫った問題なの原発は。それを理解している人がデモに来ている。だから「市民団体」とか言わないでほしい(お前だ、テレビのニュース!)。団体じゃない。みんなただ平和に暮らしたい一般人なんだ。
再稼働したら停止させておくよりも危険な状態になるし、放射性物質も垂れ流しになる。だから駆け付けているというのに。道行く人は他人事のようにこっちを見ていた。

日本人はそもそも電気使いすぎ。24時間店を開けて、必要以上に明かりをつける。手でできることにも機械を使う。なんでも買って済ませる。
それを少し手作りにしてスローにしましょうって言っているのに文明が後退するようで嫌だって思うのかしら。 個々の能力が高ければ機械はそんなに要らないのに、なんでもコンセントに差し込んで自分のかわりに仕事させようなんて、そっちの方が後退している。

とにかくまともに考えて原発推進なんて間違っているし、反対運動を批判できる人はどんな主義主張があって、それを守るためにどんだけ戦っているのか、教えてほしいものだ。

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2012年7月8日(日)

ペルーが今度は北部カハマルカで非常事態宣言。また鉱山問題。今度は金と銅で、今度はExtrata社でなくてアメリカのNewmont社。
警官が立ちふさがった神父に危害を加え逮捕する映像がペルー全土で流れた。ここ1週間でデモ隊から5人死者が出ていて、そのうち一人は16歳。警官が撃った弾が当たった。
鉱山のせいでカハマルカの湖は既にいくつか干上がってしまっているし、水銀が漏れて水源が汚染されたことも数年前にあったそうだ。カハマルカからは今でもプレインカの遺跡が出てくる。これは遺跡発掘まで予算が回らないために今でも砂の中に埋もれているのだけれど、鉱山よりもそっちが先ではないだろうか?
歴史的価値のある遺跡が出てこれば地元の人が観光業で潤う。自分たちの生活環境を脅かすと知りつつも鉱山で働かなくても済むのだ。(ところでこの鉱山で働かざるを得ない地元の人々の姿は、原発で潤う地域の人々と重なって見える。)Newmont社の脅し文句としては、ペルーで掘れないならアメリカのネバダか、インドネシアか、他のところで掘るよ、というもの。ジャイアンか!
それにしても、こういう大きな鉱業会社はなんで水という資源を軽視するんだろうか。どこでも水を汚染しまくっているように思う。いざとなれば海水淡水化プラントに頼ろうとでもいうのか。今のうちに金目のものを掘れるだけ掘るつもりなのだろうか。掘りつくして消費して、私たちもその一端を担っている。嫌だなあ。こんなにうんざりするほどモノに囲まれているのに、もっと生産する気なのだ世の中は。天然のものを人工物にじゃんじゃん変換していくのだ。
ウマーラ大統領にもがっかりだ。鉱山の問題をなんとかするよ〜って言って選ばれたくせに!早速買収されちゃったんだろうか。

Democracy Now!の動画ニュース(英語)
Al Jazeeraの動画ニュース(映画)

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2012年7月8 日(日)

ここ2週間、3日に1回はイギリスの夢を見ている。楽しかったなイギリス、さて日本に帰らないと、というような。でも空港行のバスを逃したりして、じゃあもう1泊いよう、とか。イギリスでは30人くらいで共同生活している設定。
今朝は日本を発つという夢で、行先はヨーロッパなんだけど、どこの国なのか分からないという内容だった。こんなにカナダ行きの計画を立てているのに、夢の世界では世の中に日本とヨーロッパしか存在しないかのように、ヨーロッパを目指していた。
行先が分からないので出発時刻もよく分からない。仕方なく出発日の早朝起きると、女性がやってきて、あなたの映画を撮ることにした、という。最近立て続けに3冊読んだ多和田葉子さんの小説のようなシュールさで。
カナダじゃなくてまずイギリスに行ったほうがいいのだろうか??

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2012年7月4 日(水)

今日は2回目のメルマガ発行日。もっといいものを書こうと毎回思って送信ボタンをクリック。
最初の2回は形式を同じにしたけれど、インタビューを充実させたいし、もっと色々やりたいし、専用ウェブページの画像も増やしたい。 そのためにはもっと動かないとな〜。意味あることを書いていきたい、アウトプットを充実させたい。

なんだか焦る・・・。けど何かが始まるような気がしないでもないし。ただ一つ言えることは、もう逃げ回っていてもしょうがないし、取り繕っても意味がないし、自分の中で主張している声を外に出す時代なんだなということ。
これまでちぢこまっていた手足を伸ばすような。これまで信じていた権威もシステムも方法も、何もかもが崩れ落ちそうになっている。もう自分を縛っているものは何もないのだと、自由に気が付くときなんじゃないかと思う。
その上日本人であることはすごい特権だ。どこへ行っても日本人というだけで最低限の信頼は得られる。自分以外のもの、体についたフジツボみたいなやつをそぎ落としたら、どんな性格のどんな口調の人になるだろうか?どこへ行きたいだろうか?わくわくしないだろうか?

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2012年6月16日(土)

NYのあとではトロントがすごく好きになった。息ができる町だ。私は大都会志向ではない。
トロントの好きなところは、老若男女問わず次の人のためにドアを開けて待つところ、気軽に話すところ。
スタバで注文の間違いがないようにカップに名前を書くとき(日本ではやらないけどサンパウロでもやってた)名乗ると、いい名前ね、とか言うし。私もノリコよ、とか(日系人だった)。何度知らない人とただ楽しくしゃべっただろう。
その上最初に泊まったホステルで知り合ったメリー、彼女とほんとうにいい友達になった。他にもワーホリや旅行で来ていたドイツ人、フランス人と今でも連絡を取り合っている。

ダウンタウンの真ん中ではモデルみたいな人たちともすれ違うけれど、基本的には機能的でカジュアルな服装が多く、古着テイストもよく見かける。全ての人がただ自分の基準でいいと思う格好をしているので、気楽。それに対してパリも東京も多少のやせ我慢をしてでもおしゃれを優先するところがあるから、そうでないのが好きだった。
またアメリカと比べてすごい肥満はあまりおらず(ヨーロッパよりは多いけど)、みんな走ったりサイクリングやヨガをやったりして、健康志向。自然と遊ぶことが日常的。

住んでいて気持ちがほっとすることが多かった。もちろん今後のことで悶々としてたし、ひきこもってウェブサイトを作っていたので、満喫し尽くしたとは言えないが。
でも発砲事件があったとはいえ基本的に平和だし。人は目を見て話すし、その上適度な距離がある。住みやすいと言われるゆえんが分かった。

帰りの航空券をどうしようか散々迷って、結局一度帰国することにしたけど、トロントを、カナダを離れるのは思いのほか寂しかった。あっというまに東京、そして今実は札幌に来ている。カナダと共通点がなくもない北海道に。

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2012年6月13日(水)

週末ニューヨークに行ってきた。(詳しい話や写真はこちらから)

色んな人種がいるけどみんな英語をしゃべってアメリカ人というアイデンティティを持っている、その感じはブラジルと似ている。
アメリカとカナダの両方で育ったパキスタン移民の友達が言っていたが、アメリカでは各々の出自よりアメリカ人としてのアイデンティティが先に来るのに対し、カナダでは家系のバックグラウンドが国籍に優先するとのこと。ブラジルはその意味でアメリカと同じだ。
NYの汚い部分はサンパウロと似ている。ブラジルの金持ちがNY大好きなのはわかる気がする。違和感がないのだろう。おおざっぱにいえば、サンパウロをより活発にして英語吹替にしたのがNYだから。
私には忙しすぎると思った。東京で14年も生活したので、都会の生活はやってやれないことはない。けれど疲弊してしまうだろう。そんなにぎゅうぎゅうに詰め込んでわさわさしなくても便利に楽しい生活は送れる。その意味でのんびりしたトロントと意外と相性がいいことが分かった、NYに来てみたおかげで。トロントは人種差別も経済格差も対人関係ももっとマイルドで、人がもっとリラックスしている。

NYの地下鉄は6月初旬でもうムシムシして風が入って来ず、これも苦しかった。NYの地下鉄は非常に浅く作られている。東京がトンネルを掘って作ったのに対し、NYは溝を掘ってふたをかぶせるように作ったらしい。そのせいで逆方向に行く際、一度改札を出ないといけない駅がある。妙に湿気がこもるのもこの方法のせいなのだろうか。ともかく真夏は耐えられそうになかった。
風がないところにいると息苦しくなってしまうのだ。最近特にそう。きれいな空気があって美しい緑があって、深呼吸するだけで幸せ〜と思える場所が自分にとって理想的な場所。

今回アメリカ人について考えた。私はアメリカンスクールに通っていたのでアメリカは特殊な位置付け。住んだこともじっくり訪れたこともないのに、近すぎる隣人のように、ずっと対象として考えることをしてこなかった。勿論国際社会の中での動きは見ているが、他の国を見るようにニュートラルな目では捉えたことがなかったように思う。ただ偉そうで浅くて嫌だな、とだけ。
ところが陸路で訪れたことで、広大な土地の一部ではあるが自然の景色を見て、それを糸口にアメリカ人のメンタリティに思いを馳せることができた。

自国を世界一だと思っているアメリカ人。国土が広いので隣国はカナダとメキシコだけ。アメリカ人が外国人に自己紹介するとき、出身国を言わず州の名前を言うのは有名な話。世間知らずというか、なんというか。
経済格差があったり社会保障制度がいまいちだったり、遺伝子組み換え食品が威張っているようなモラルのレベル。それでも経済大国だからって自分たちを世界一、世界の中心と教育されるまま素直にそう思い込んで生きてきたアメリカ人。色々な国に住んでじっくり考えてみればその滑稽さに気付くのだろうが、そういうチャンスに恵まれる人は少ない。
世界経済を回してて世界の様々な問題解決に尽力するヒーロー的存在だと勘違いしても、全体的に社会がそうできているからしょうがない。
そうやって見ると、アメリカの一般市民はクレイジーな行政と結託した金持ちたちに素直に洗脳された犠牲者、と思えなくもない。権威を信じてピラミッドの上を目指し続け、ホルモン入りの肉を食べ、遺伝子組み換え食品を食べ、体にも環境にも悪い洗剤を使い、監視を許す法律に進んで縛られ、煽られて戦争にいく。愛国心という便利なスローガンのもとに。
一人一人は気のいいアメリカ人。肥満が妙に多いのも素直に広告に踊らされて口にし続けている食品の質のせいではないのか。そんなことを思った。

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2012年6月4日(月)

peru peru

5月29日に書いた話の続き。
別のニュースソースで、ペルーのウマーラ大統領の選挙公約のひとつがこの鉱山に関するものだったと知り、この対応にちょっとがっかり。外国資本の鉱山による様々な弊害をなんとかします〜って言って票を集めておいて、結局いざとなったら市長に責任を取らせて終わり?有権者たちもさぞかしがっかりだろう。
一国の長としては、ペルーが輸出額の60%を鉱山に頼っているこの状況では、選択の余地がなかったのかもしれない。けれどそれでは状況は変わらない。外国資本に搾取されながらゆるゆると成長して、その先に何が待っているというのだろう。国土の汚染、縮まらない経済格差。利権者が更に私腹を肥やすだけ。それで民度の高い国ができるかっていうの。

それにしても相当の圧力をかけてきたんだろうなX社。Friends of the Earthの調査では色々おきて破りをした事実が明るみにでて一度は罰金を支払わされた前科もあるようだけど。いかにも敵に回したら勝ち目のなさそうな感じ。
もっと小規模に地産地消で生活していけばこういう大規模な採掘って必要なくなるんじゃないかな。大きく儲けたい人がいる限りこの傾向は続くと思うし、大きく儲けている人がその既得権益を手放すはずはないけれど。
それでも電気をはじめ、何でも現代人は消費し過ぎ。自分が使う以上に、必要としている以上に、買い求める人がいるからこそ、この大きく儲けたい人につけこまれて、それでまわっているのが今の経済ではないのか。
自分にとって何が幸せか、必要かを考えずに、やみくもに雑誌やテレビにあおられて消費してきた結果、なんで買ったのかも分からないようなものに囲まれていやしないだろうか。

私が人生で最大にものを処分したのは大人になってから3回。離婚のとき、南米行く前、去年日本出る前。離婚のときが本当に悪夢だった。買うのは簡単だけど処分するのは大変なことなのだ。買わせるシステムは非常によくできているけれど、リサイクルのシステムは全然追いついていない。
私たちを取り囲んでいるモノにもっと注意を向け、それがどこからどうやって来たのか?どこに行くのか?どうやって捨てるのだろうか?を考えるだけで、ムダな買い物は絶対に減らせる。
ペルーの鉱山だけでなくカナダも資源の輸送のためにパイプラインを通す話が問題になっているようで、人間と資源の付き合い方を見直すときが来ていると思う。従来のやり方はいろんな人を不幸にする。今回デモで亡くなった方は住民側の方だったようだ。

写真は、低所得者が働くアレキパの石切り場と、チバイの山道から見た景色。観光客の来る場所には鉱山はない。

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2012年6月2日(土)

pyrenees pyrenees

ピレネーでWWOOFをしていたときに、ホストファミリーの友人にクレアという女性がいた。
超おしゃれだった彼女。それまでに日本のエコ雑誌でよく見ていたようなスタイリングとはまったく違う観点からの農作業ファッションにはっとした。
彼女は4人の子持ちだけど旦那さんと離婚した直後で、自信をなくしていて、元気がなかった。
ホストファミリーの納屋の裏に彼女の畑を作り始めているときだったので、私はそれを手伝って、そのときおしゃべりをした。

いつも元旦那にお前はダメだ、ダメだ、と言われて自分に自信が持てず(モラハラですね)、どこか頼りなさそうな少女のようなところのあるきゃしゃなクレア。4人も子供がいるようにはとても見えなかった。
そばかすの浮いたすっぴんの気弱な笑顔。ブロンドのショートヘア。自分で適当に切ったみたいなバサバサ感がかわいい。
全体に外見に気を使っていないのは明白なんだけど、そこが更におしゃれ感をかもしている。
適当にそこらへんにあったのを掴んできましたという感じでローゲージカーディガンを羽織り、色の抜けた短い柄キャミソールワンピースに、いわゆるボーイフレンドデニム。大きなバスケットにリンゴとサンドイッチ、ガラスのビンに水を入れてやってきた。
日が照って暑くなってきたら、いつのまにかジーパンを脱いでいて、ワンピ1枚で鍬持って土を耕す。長靴とシンプルなキャミソールワンピースは彼女のショートヘアとちょうどいいバランス。
帽子はかぶらない。手袋、軍手のたぐいもない。日焼けとか虫刺されとか汚れるとか言って、全身カバーして農作業に臨む日本人女子とえらい違う。
ワンピースで畑仕事??と思ったけど、なかなか素敵。
で、疲れると雑草生えてるスペースに寝転がってお昼寝。

景色に溶け込んでたなあ。写真撮らせてもらえば良かった。フランス映画みたいだったの、本当に。
真っ白なとても大きい犬をいつも連れてきていた。特に美人とかじゃないけど独特な雰囲気、年齢不詳で絵になる人だった。
自信ないっていじけていても、それも彼女のドラマっていう感じで。こういう魅力もアリだなあと思わせる説得力に満ちていた。

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2012年5月30日(水)

vietnamese coffee

脂身たっぷりのベーコンを使ってパスタをつくった。
脂の部分を見て、豚の脂肪分なんだな、とふと思った。
すると突然豚という生き物を食べているということが鮮明に意識された。
私が食べているこれはある豚の体の一部だった。
その豚は人間がいつか食べようと思って育てた家畜。
その豚の存在理由は人間に食べられること。
じゃあベーコンの隣にあるズッキーニは、ナスは、パスタになったセモリナ粉は、どうだろう。
やはり人間の都合のいいように育てられたもの。品種改良を重ねて、その種としての存在を、人間の都合の中に組み込まれたものたち。
人間は食物連鎖の頂点にいて、他の生き物を思い通りにしている。

それはまっとうではない。本来は自分で食べる分だけ狩ってくるべきだ。命を奪うということはそれくらい重いこと。
その役割を誰かにゆだねて、レジでお金を払って済ませるのなら、命を奪っていること、豚が1頭死なないとこっちが生きられないこと、その残酷さをせめて子供の頃から知っておかないと。
「いのちの食べ方」というドキュメンタリー映画を見たとき、流れ作業で牛や豚が屠殺されていくシーンがあったが正視できず、そんな自分を情けなく思った。あんた肉食べてるんでしょー?ちゃんと現実見なさいよ!と。

この大地と海から生まれたものを私たちは食べて生きている。
自分は、他の高貴な生き物を犠牲にする価値のある存在だろうか。
頂点にいるならそれらしく、価値のある生き方をしなければ。
誰かの家畜になっている場合じゃない。夢に生き、何かに貢献しなければ。

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2012年5月29日(火)

oilfield

ペルーの一部地域で30日間の非常事態宣言が出されたとFRANCE24で読んで、何事かと思い調べて行ったら、スイスに本社を置くX社の鉱山による汚染問題。
この会社、UKとスイスにありながら、ペルーで問題を起こしている。先進国のいじめみたい。
鉱山が原因で生活用水の汚染被害が出たと周辺住民が訴え、それがデモに発展し、遂には警官にけが人が出た。人質に取られる一幕もあった。
X社の主張は、多額の寄付金払ったじゃん、というもの。だからなんだって言うんだろう。それで引越せば?ということだろうか。汚染した自然に対しても、迷惑をかけている地元の人に対しても、まったく誠意がない。
クムカのトラックがアレキパに入るときにもデモで道が封鎖されていたが(詳細はこちら)、この件と関係があったのだろうか。今は知る由もないが。

このX社、オーストラリアではアボリジニの生活圏を脅かし、ニューカレドニアではニッケルを採掘している。ニューカレドニアには日本とブラジルのほうが来ているようだけど、汚染がたびたび問題になっている。
大手はあくどいなーと思うと同時に、何でも買って、捨てて、また買って、を繰り返す消費者の在り方にも問題があるなと思った。自分のことも含めて。
こんなに買う人がいなければ売る方も無茶はしない。なんとなく手に取ったものが、どういう過程で自然の状態からここまで加工されてきて、どのように自然にかえっていくのか。それを考えると、そこについている値段はまったく別の観点から、人間の都合で付けられた価値でしかないということがわかる。それは本当の価値とは乖離している。
某ファッションブランドのZは工場で未成年を劣悪な環境で働かせていると噂されている。いわゆるchild laborだけど、それを知ってから私はこの店に入れても商品は買えない。いくらお手頃価格でも、買う気がしない。
トレーサビリティがどうのとか食品ではよく言われることだけど、たどって来た過程を知りたいのは食品だけではない。


追記:
5月31日付のニュースで、この地域の市長がデモを扇動したとして逮捕されたと出ている。X社は汚染を否定しているともあるが、それだと多額の寄付金の意味が違ってきやしないだろうか。
例えばあえて住民側に肩入れしてこれを見てみると、百歩譲って逮捕した警察側には死傷者が出たことで対立感情があるとしても、なんだかX社に買収されているように見えてしまう。でも市長逮捕って穏やかじゃないなあ。

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